「…………失礼。彼女に何か御用ですか」

 下着泥棒と対峙したときよりも、いっそう剣呑な眼差しでエドウィンが問う。
 彼は何故かとても怒っているようだった。リアを抱き寄せる腕は優しいが、放つ雰囲気は非常に刺々しい。これは死人が出る。
 頬を引き攣らせたリアは慌てて体を反転させ、エドウィンの肩を控えめに叩いた。

「エドウィン、エドウィン。待って大丈夫、別に何もされてな」
「何も? 十分されていましたよ」

 腰を力強く抱かれ、くいと顎を掬われる。
 それが先程まで男に強いられていた姿勢だと気付き、リアは音が鳴るほど顔を赤くしてしまった。何より今、それをエドウィンに再現されていることが途方もなく恥ずかしい。
 エドウィンは無防備を咎めるような手つきで喉をなぞると、やがて羞恥に縮こまった彼女を腕の中に閉じ込めてしまった。
 そして彼が再び胡乱げな瞳で男を睨めば、堪えるような笑いがもたらされる。

「驚いたな。まさかとは思ったが……北部戦線でご活躍中の()()()エドウィン・アストリー殿じゃあないか。キーシンとの戦は終わったのか」
「……収束に向かっていると報告を頂いています」

 ──銀騎士?
 エドウィンに抱き締められたまま身動きの取れないリアは、その呼び名に疑問符を浮かべた。
 しかし眼前にある逞しい胸板と仄かな良い香りのせいで、彼女の思考は全くまとまらず。一人でぐるぐると目を回していると、エドウィンが素っ気ない口調で会話を切り上げようとした。

「用事が詰まっておりますので、これで失礼させていただきます」
「つれないな。そのお嬢さんと世間話すらさせてくれないのか?」
「先程のあれが世間話だとでも──っ」
「のわっ!?」

 突然、エドウィンの胸が大きく喘ぐ。リアが目を見開く暇もなく、彼は苦しげな呼吸と共に前のめりになった。
 咄嗟にリアが踏ん張ったおかげで崩れ落ちることはなかったが、それでエドウィンの異変が治まったわけではない。彼の額や首筋には玉のような汗が浮かび、虚ろな瞳は今にも閉ざされてしまいそうだ。

 ──まさか、呪い!?

 どくりと心臓が嫌な音を立てる。リアは緊張に指先が冷たくなるのを感じながらも、急いでエドウィンの右腕を持ち上げて頭をくぐらせた。そしてしっかりと彼の右腕と背中を掴みつつ、小声で言い聞かせる。

「エドウィンっ、ゆっくり呼吸して、まだ寝ちゃ駄目よ……!」
「おい、何があった?」
「ななな何でもない! その本、元の場所に戻しといて!」
「は?」

 困惑する男に後片付けを一方的に頼み、リアはエドウィンを支えたまま図書館の外を目指して走り出した。
 エドウィンの意識が途切れてしまう前に、どこか人のいない場所を探さねばと視線を巡らせる。しかしリアが大公宮の造りに詳しいはずもなく、どこへ向かうべきかと焦りばかりが膨らんでいく。
 早くしなければ衆目を集めてしまう。もしも医師なんて呼ばれたら大変だ。皆の前でエドウィンが獣になる瞬間を披露することになる。
 図書館の出入り口に近付くにつれて、人混みが増えてくる。彼らの視線がこちらへ向けられるたび、ヒヤリと背筋が冷たくなる。
 どうか誰も声は掛けてくれるなと必死に願っていると、覚束ない足取りのエドウィンが小さく口を開いた。

「……っリア」
「エドウィン、ど、どこ行けば良いっ? 人がいっぱいで」
「図書館を出て、右の……通路を真っ直ぐ」
「右ね、右」

 善神イーリルの彫像を通り過ぎ、ようやくリアは図書館の大扉をくぐる。
 外はいつの間にか日が沈みかけており、鮮やかな茜色が空の裾に残る程度だ。ひんやりとした風が汗を冷やす中、言われた通りに右折しては人気のない柱廊を進む。
 歩調の合わない二つの足音が、次第に速度を落としていく。
 耳に触れる呼気は弱く、エドウィンの呼吸がどんどん浅くなっていることを知った。
 ちらりと横を窺ってみれば、ちょうど彼の横顔に黒い筋のようなものが這う。血管に似たそれは、ゆっくりと彼の頬から額に向けて手を伸ばしていく。
 禍々しい光景にリアは息を呑み、即座に周囲を確認した。幸い、人影はもう見当たらない。

「リア、……離れてください。獣の姿だと、あなたを傷付けるかもしれない」

 柱廊の外側にある庭園に下りたリアは、垣根の陰にエドウィンを座らせた。鞄から引っ張り出した手拭いで、彼の汗を吸い取りながら告げる。

「私は大丈夫よ。エドウィンから目を離す方が危ないわ」
「ですが……」
「あんまり覚えてないかもしれないけど、私あなたのこと全力で追いかけ回した女なのよ。心配しないで」

 そこだけは自信満々に言い切ると、エドウィンが少しの間を置いて力なく笑った。
 影は既にエドウィンの首を黒く染め抜いている。袖口を捲れば、そこも同様にして影が皮膚を蝕んでいた。
 ──侵蝕が始まるのは心臓の辺り、聞いてた通りの強烈な眩暈と、あと発熱もある。
 出来るだけ呪いの症状を確認しながら、リアは彼の首に掛かっているアミュレットを胸元から引き抜いた。

「……!」

 ロケットの内側、水の精霊から加護を受けたはずのジェムストーンは、半分に欠けてしまっていた。