君は、僕――ネムリネズミのことが大嫌い。

(それは仕方のないことだから、僕は怒ったりなんかしないよ)

 だって僕は、君のことが大好きだから。

(君の『大嫌いな自分自身』が生きる足枷になるのなら、僕が喜んで背負うよ。アリス)

 僕の望みは、君の幸せ。
 僕の願いは、君の笑顔。

 けれど……愛おしい君の口は、僕に「嫌いだ」と吐き捨てる。
 それでいいんだよ、大丈夫。君が僕を嫌うのは、当然なのだと“ネムリネズミ”はよく知っているから、大丈夫。自分を責めなくていいんだよ、アリス。

(ああ、でも……アリスが僕を見ることで辛い思いをするのは、全然『大丈夫』じゃないや……)

 それなら僕は君のために、嘘を吐く薄汚いネズミになろう。

(大嫌い、大嫌い……)

 ――……僕は、アリスが大嫌い。



 ***



「いやっ……!!」
「……!?」

 バチン。
 渇いた音を響かせて、僕の差し出した手は弾かれる。

「アリス……」



 ***



 僕はこの世に生まれ落ちた時、こんな立派な人間の体なんて持っていなかったし、この不思議の国の住民でもなかった。
 元はアリスと同じ世界に居て、その時の僕はただの野ネズミとして生きていたのだけど、僕はのろまで頭が悪いから、

(もう、死んじゃうのかな)

 自分の体より何倍も大きいカラスに突かれて、いじめられて。自然において自力で逃げられないほどの怪我を負うということは、直結で死を意味する。
 弱肉強食の世界では、弱いものが淘汰されるのは当たり前だからだ。

 でも、

「よわいものいじめしちゃ、だめ!」

 はっきりと『死』を覚悟していた、あの時。

「ネズミさん、けがしてる……かわいそう」

 アリスが、僕を助けてくれた。
 僕の命を、救ってくれた。
 たった“それだけ”かもしれないけど、僕が君を大切に想う理由なんて“それだけ”で良いと思うんだ。


 ***



 あの日からずっと、アリスは僕の中で『命の恩人』なんて言葉じゃ足りないくらい大きくて、尊くて、眩しい存在でい続けている。
 だから……この国に来て割り振られた『役割』というものを説明された時、

(僕が、アリスの『嫌いなアリス』……? 僕が“そう”なれば、アリスはもう苦しまなくて済むのかな……?)

 やっと、アリスの役に立てる――恩返しができるのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。

 アリスが初めてこの世界に来てくれた日のことは、今でもはっきりと覚えている。
 だって、またアリスに会うことができた時、踊りだしたいくらいとてもとても嬉しかったから。
 でも、

「ねむり、ねずみ……?」

 アリスは――そうじゃなかったね。
 僕に会ったことが「嫌だ」なんて、そんな生易しい感情じゃなかったんだろうね。ううん……まず、きっと根本から違っていた。
 アリスにとっては「出会った」んじゃなくて「出会ってしまった」という、絶望にも似た感覚だったのかもしれない。

(そうだ、だって……僕は、)

 僕とは、まるで正反対。
 君の心は、違うんだ。

「さわらないで!」

 空色の瞳に涙をためて、小さなアリスは叩きつけるように叫ぶ。

「ネムリネズミなんて……きらい、きらい……! きたない! かおも、だいきらい!!」

 幼い心の中にあるのだろう辞書の、少ないページを必死でめくり、精一杯の罵倒の言葉を羅列していく大好きなアリス。

(……ああ、そっか)

 アリス、アリス。バカなネズミでごめんね。
 僕は自分の『役割』を、都合が良いようにしか解釈できていなかった。

(……そうだ、当たり前だ)

 そう。その目が『僕』を映した時、拒絶反応を起こすのは当たり前のことだと、どうして今の今まで気づけなかったんだろう?

(ごめんね、アリス……上手く役に立てなくて、ごめんね)

 アリスに弾かれた手は行き場を無くし、どうすればいいのかわからない。

「ネムリネズミなんて、だいきらい!」

 ごめんね……それでも僕は、アリスのことが大好きだよ。

「こっちにこないで!」

 ねえ、アリス。あの時、助けてくれてありがとう。
 それだけはどうしても伝えたくて、この体になってから人間の言葉をたくさん勉強したんだよ。

「さわらないで! きたない!」

 それじゃあほら、毎日ちゃんと体を綺麗に洗うから。

「きもちわるい! かおもみたくない!」

 アリスの小さな手が、僕の……頬を、腕を、体を叩く。でも、痛いのはきっとアリスの心だ。

(こんな僕が……アリスのことを大好きで、ごめんね)

 アリス、アリス……君がどんなに『アリス』のことを嫌っても、

「……アリス、」

 僕はアリスのことが、

「……大嫌い……」

 世界で一番、大切だよ。

「僕は……アリスなんて、大嫌い」

 嘘だよ、ごめんね。大好きだよ。
 本当は、何よりも誰よりも愛おしくてたまらない。

(でも、僕は……アリスのそばに、いちゃいけない)

 僕がアリスを愛することで、君を傷つけているのなら。
 僕がアリスに手を伸ばすことで、君を苦しめているのなら。
 それなら僕は……君がもう傷つかないように、いつでも笑顔でいられるように。君に嫌われる嘘吐きネズミを演じるよ。

(ねえ、アリス)

 もう、アリスに近づかないよ。だから、

「……アリス……」

 ――……お願い。どうか……世界で一番幸せだって、笑って見せて。