「ニカ、寒くないかな?」
「大丈夫です」
「その椅子の座り心地はどう? 腰は痛くないかな?」
「……ご心配ありがとうございます。とても快適です」
「あ、喉乾いたよね。僕、お茶を淹れてくるね!」

 お気遣いなく、そう応えるよりも先に、アトル様は部屋から飛び出してしまった。

 あれから、お見合いは順調に進んでいる。アトル様と会う頻度も増え、今日もアトル様のお屋敷に招待されていた。正式に婚約を文書で交わす日も、そう遠くないだろう。私の預かりしれぬ所で、その準備が着々と進んでいるらしい。

 そして、なんとアトル様の屋敷に私専用の部屋を作ってもらった。白壁はこの屋敷共通ざらざらとした材質で、複数の細かい穴が空いている。固いんだけど、石よりも柔らかい感じがする不思議な素材だ。聞いた所によると、珊瑚というもので出来ているらしい。対して、机は普通の木造で、椅子も同様。だけど双方共に私の座りやすい高さで作られており、椅子に関しては背もたれのカーブや腰のクッションの硬さまで、全て私のためにあつらわれていた。本棚にはこれでか
と、資料本が詰め込まれている。

 そんな広くない部屋。そしてそれしかない殺風景な部屋。それが、私の書斎――執筆部屋。

 一人になった私は、息を吐く。

 どうして寝室や衣装室ではなく、書斎⁉ 息を抜く花も絵画もない。本当に書くことに集中するためだけの部屋。

 まぁ、真っ昼間から執筆できたことなんて人生始めてだから、胸躍っているのは確かなんだけど……それでも、これでいいのかなぁ感が拭えない。私は宰相令嬢なのよ? あなたは王子なのでしょう? そして私たちは婚約目前の間柄なのよ?

 デートするわけでもなく、会話をするわけでもなく。一方はただひたすら趣味に打ち込み、一方はその活動を全力で支える日々――そこまでして、彼は私の書いた小説の続きを是が非でもと待ってくれているのだけど……こんな生活も早二週間。ほぼ毎日。どうしよう。幸せすぎて変な笑いが出る。

 緩む顔を元に戻し、彼の期待に応えるべく再びペンを取った時だった。

「入るわよぉ!」

 声よりも先に響くのはドアがバァンッと開かれる音。
 振り返れば、やっぱり顔も服装も濃い美しすぎる美丈夫の姿。ノックがないのはもう諦めた。

「マルス様、いかがしましたか?」
「アンタさぁ、どうするつもりよぉ?」

 はて、何のことだろう――て、考えるまでもないわね。

「一応、この執筆はアトル様が望まれていることなのですが……」

 やっぱりこの快適引きこもり生活はダメよね。さようなら、私の趣味ライフ。また老後隠居したあとにこんな日々を過ごせたらいいな。

 ちょっぴり感傷に浸っている私の背中がバシーンッと叩かれる。痛いわ。思わずむせる私をよそに「誰もそんな話してないわよ」とため息が吐かれる。

「誰も小説書くの、反対してないじゃない。アタシも応援してるわよ、アンタが本気でやっているうちは」
「マルス様……」
「ただし! やるからには全力でやるのよ! きちんと出版業界に売り込んで、商品にしてもらいなさい。そしてアンタの本を広めてベストセラー! 全世界を笑わせて泣かせて、がっぽがっぽ印税を稼ぐのよっ!」
「さ、さすがに夢の見すぎでは?」
「そんな『それ素敵ね』ってキラキラした目で謙遜されても、腹が立つだけなんだけどぉ。ほんと性格してるわぁ。もう一発殴っていい?」
「もう背中ジンジンしているので、今日はこのくらいで勘弁してくださいませ。でも、マルス様は本当によく手が出ますね?」
「弱肉強食が海の基本だからね。気に入らないヤツはぁ、ぶっ飛ばすだけぇ~」
「せめて手加減してくださいまし」
「アンタねぇ……アタシが本気だしたら、細っこいアンタなんて一撃で骨も内蔵ぐちゃぐちゃ原型留めておけないわよぉ?」

 うわぁ、想像できちゃうけど想像したくない……。
 そんな軽口に乗じていると、「と、こんな話がしたいんじゃないのよ」とマルス様。

「アンタのお父さんから、正式に婚約を結ぶ手筈を聞いたんだけどさぁ。アンタがアトクルィタイをちゃんと結婚する気なら、こちらもちゃんと海の王様に証書もらって陸と海の会合とか準備を進めるけど、どうする?」

 どうやら、本当に話が具体的に進んでいるらしい。

 通常ならば家と家で場を設け、文書にて婚約を結ぶ。そして無事に婚約が結ばれれば、結婚に向けて準備を始め、教会にて式を挙げる。招待客の厳選や案内状の送付。そして関係貴族や王族へのお目通り等華やかな準備もあれば、支度金の相談や家同士の融資、事業の相談等々腹を探り合う準備は避けて通れない。

 それが今回、陸と海の異種族間。その規模や準備は国家間を超えて大規模なものになるだろう。

「その会合で、婚約の文書を交わすのでしょうか?」
「おそらくそうなるわね。海側としては、陸の文化に合わせるつもりよ。アンタの家にアトクルィタイを婿に出す形だからね。郷に入れば郷に従えってやつ」
「え? 私が嫁に行くんじゃないんですか?」

 初耳の大事な事案に、私が驚きを隠さないでいると、マルス様が苦笑した。

「アトクルィタイの意思とはいえ……アンタはただのお姫様じゃないもんね」

 どういうこと――私が尋ねるよりも前に、私の目が大きな手が塞がれる。

「いいわ。わるぅ~い魔法使いに、喜んでなったげる」

 視界がまっくらな中、かぽっと何かが開いた音がした。そして冷たく、だけどふっくらしたものが唇に触れたと思った途端、喉に甘いものが流される。

「マルスさ……」

 私の声は、最後まで言うことが出来ずに――

「アンタに、アタシの口紅は似合わないわね」

 唇を指で拭われた時、私は息が出来なくなった。



 

 苦しい。苦しい。息が出来ない。目が見えない。痛いの。全身が痛い。特に足が痛いの。助けて。死んじゃう。このままじゃ死んじゃう。むしろ殺して。苦しいの。どうかお願い。誰か。誰か。

 暗闇の中で、もがいて。あがいて。それでも苦しくて。

 この感覚に、覚えがある。そう、あれは水槽で溺れた時。あの時はアトル様が助けてくれて。

 でも、今は溺れていないはずなのに。水の中に飛び込んでもいないのに。どうして?

「……ニカ」

 苦しい。もうだめ。もう……。

「ニカ、落ち着いて。ゆっくり息を吸って……そう、吐いて。もう目を開けて大丈夫かな」

 その落ち着いた声に誘導されるがまま、私はゆっくりと目を開く。

 ゆらゆらと揺れる視界。私が呼吸をすると、ぷくぷくと小さな泡が空へと上がっていく? 空? 違うわ。空はこんなに近くないし、こんなにキラキラ輝かない。空はもっと高くて、澄んでいて。見上げるたびに、なぜか胸が苦しくなるものなの。

「ニカ、大丈夫かな?」

 聞き覚えがある口調、だけど塞がれたような声音に、私はそっと視線を向ける。隣には金髪の綺麗な少年の姿があった。

「アトル……様?」

 彼は服を着ていなかった。一瞬ぎょっとしかけるも、下肢を見て納得する。彼の下肢が人魚になっていた。尾びれがひらひらと動いている。

 あ、ここは水の中……?

 そう認識した瞬間、私はぎゅっと彼にしがみついた。そして口を噤む。また溺れてしまうと思ったからだ。だけど彼は眉間を寄せながらも、微笑んだ。

「大丈夫。力を抜いて。ゆっくりと尾ひれを動かしてごらん?」

 尾ひれ?

 私に尾びれなんて――と迷った視線の先には、赤いひれ。無意識なのに左右にひらひらしているのは、波のせいかしら? わずかに浮かんでは沈む感覚。そして左右に揺れる感覚。視界にはいやでも小さな魚が入り込み、木々のように生えている光る枝には見覚えがある。あれはアトル様と出逢った初めての日、歓迎の舞として踊っていたアトル様が両手に持っていたものだ。

 え? えええ? これはどういうこと?
 そもそも私、なんでこんなに薄着……下着より心もとない格好なのですか⁉

 上は貝殻の胸当てだけ。下なんて何も……あぁ、やっぱりこの赤い鱗が付いた下肢は私のなんですか⁉

 待って。待って、ちょっと待って、本当にどういう――

「アンタねぇ……いい加減、人魚になったこと認めなさいよ!」

 ズシンと脳天にチョップを受けて、私の赤い髪が大きく揺れる。その髪の先に見えた悪気もないオネエの人魚は、やっぱり海の中でも派手だった。