そこは回廊のような場所だった。大岩が円形に並べられ、その岩肌には抽象画が描かれている。波も少なく、薄暗く。光源の代わりにとても小さな生物が発光し、浮いている。他に人魚や魚がいるわけでもない。静かな場所。

 話によれば、ここは教会のような場所らしい。

「大昔は、儀式で使われていたみたいかな。でも最近は儀式が必要な大きな魔法を使うこともないし、見ての通りくたびれているから。普段は誰も寄り付かないんだ」
「しかし大事な場所なら、なぜ整備や警護に人員を割かないのですか?」

 なんとなしに尋ねると、アトル様が小首を傾げる。悩む顔が子供らしくて愛らしいわ。顔を緩めないようにしなくっちゃ。

「うーん……面倒だから、としか答えようがないかな。陸の人間みたいに神様を信仰しているわけでもないし、結婚式やお葬式みたいに定期的な儀式を行う文化もないし。大々的な召喚魔法を使う時に、魔力素の多いこんな場所を使っていたらしいけど、そんな大々的な魔法を使う危機も最近ないしね。今の王様、強いから。だから、こんな辺鄙な場所に来るのは僕くらいかな」

 アトル様に促されるまま、私は横に長い岩に腰掛けた。ずっと引っ張られるまま泳いでいて、身体がしびれたような感じがする。主に下半身。

 ほっと一息吐くと、まるで身体を横たえたように浮くアトル様が苦笑した。

「ごめんね。いきなりで、疲れたかな」
「そんなこと……少しだけ」

 否定するにも無理があるほど、疲労を隠せる自信がない。素直に認め、私は気になる点について疑問を重ねた。

 それは、少しモヤッとしたこと。

「最近は大きな危機がないとのお話でしたが……瘴気戦争は、その危機に値しないのですか?」
「あれは、陸だけのお話でしょう? 僕らも一応情報だけは仕入れていたけれど、陸の人間の邪な感情の蓄積が原因だって話だから。下等生物が自業自得で滅ぶだけなんだろうなっていうのが海の共通認識だったかな」

 これは……本当にアトル様の発言なの?

 あのお優しいアトル様が、私たち人間を下等? あんな絶望的だった頃のことを、陸だけの話? 自業自得?

 酷い言葉の数々に、胸の奥が凍てつく。唇が震えた。

「アトル様も……そう、お考えだったのですか?」
「僕も下等生物だから」

 その笑顔は、とても悲しそうだった。

「海は全ての母。全ての生物は、海から生まれる。だから、陸でいう神様なんてものは、海には存在しない。海こそが、神様のようなものだからね」

 それは、一見神秘的な話。
 私が知っている神が創生したという常識よりも、一見ロマンチックだと思った。

「陸の生物は、そんな海で暮らしていけなかった弱い生物が逃げた先だと、海では考えられているんだ。弱肉強食で、排他された弱い奴らが逃げた所――それが陸。そんな陸で大量繁殖したのが、陸の人間。そんな生き物が、絶命しようがどうしようが、関係ないかな。弱者は滅んでも仕方ない。だって弱いんだもの」

 だけど後に紡がれる話に、容赦はなく。私は、目を伏せた。

「それなら……どうしてそんな下等な私と婚姻……交流しようと思ったのですか?」
「娯楽の一貫……なんだと思う」

 私は涙を堪える。悲しいのか、悔しいのか。何のための涙なのか、私にもわからない。
 海の城には陸の様子が見える魔法の鏡があるんだけどさ、とアトル様が話し始める。

「海の王――僕の養父でもあるトリトン王の気まぐれ。王が暇つぶしで陸の様子を見ていた時に、君のことを見つけたらしいんだ。どうやら、陸の覇者の妃になるはずだった雌が捨てられたらしいぞ、て。おまえ、あの可哀想な雌を娶ってやったらどうだ。お似合いだぞって、言われて――僕も、一連のことは見ていて。それで、僕はその婚約に同意したんだ。王に言われたからだけじゃない。僕がぜひ婚姻を結びたいと思った」

 あぁ、ミハエル様との婚約破棄の件も、ご存知だったのね。
 可哀想な雌。それは同情? それとも嘲弄?

 握り込んだ自分の手が痛い。だけどその手が、ふと何かに包まれた。

 目を開けば、アトル様が私の手に、手を添えていた。人魚姿だからか、手袋をしていない。だけどその素肌は温かくも冷たくもなかった。素肌なのに。水中だからかしら。アトル様の手は、私のものよりも大きい。節が目立つ。

 その手を、振り払ってやろうと思った。

「僕は落とし子だから」

 でも、私の手は動かない。

「さっき、全ての母は海だって話したでしょ。でも、僕は海の上――空から海に落ちてきた――落とし子と呼ばれる忌み子なんだ。マルスコーイもそう。空に住まう竜が落とした子供は……何の皮肉か、多くの魔力を秘めていてね。昔は落ちてきた子供を殺していたらしいんだけど、そのたびに海で災いが起きたようで。その災いを恐れて、今では王族が育てるようになったらしいんだけど」

 今日はいつになくよく喋るなぁと思う。でもどうせなら、もっと楽しい話が聞きたい。

「しょせん、僕は海で生まれたわけじゃないから」

 あなたは何が好きなの? どんな食べ物が好き? どんな人が好き? 
 そんな話、私は聞きたい。ニコニコと楽しそうな顔が見たい。

 それなのに、

「王様の庇護のもと管理されているけど、しょせんは忌たる存在。母なる海に還ってきたけど、生まれは違う。たとえ強い魔力を持っていたとしても、落とし子は落とし子。下等な存在」

 紡がれるのは、そんな悲しい話ばかり。

「トリトン王にとって、僕らは扱いづらいおもちゃ。なるべく巻き込まないように、僕が婿に行く形で……きみに海に関わらせないような形での婚姻を結ぼうと思っているのだけど……本当に結婚したとなれば、どうしても海に関与する機会も出てくると思う」

 彼は私の手を握ったまま、膝をつく。人魚の状態で正確には膝はないのだけど……そんなこと、どうでも良かった。

「ねぇ、ニカ。それでも、僕と結婚してくれる?」

 私より低い位置から、見上げてくる。笑っているような、怒っているような、ものすごく緊張が伝わってくる顔で。

 だけど一言一言、はっきりと。私から目を逸らさず、ゆっくりと伝えてくる。

「ニカが可哀想な目に遭ったから、同情しているんじゃない。ミハエルって王子のこと、好きだったんだよね? それでも国のために、あの聖女って子のために、大切なもの、頑張ってきたもの、手放したんだよね?」 

 今も聖女と文通続けているんでしょう、とアトル様は言う。
 前に寝室で聖女宛の文を書いていたよね、とアトル様は言う。

 そう――私の小説しか気が付いていないのかと思っていたけど、しっかり見るところは見ていたのね。まったく……可愛い顔して、なんて抜け目ない。

「そんな優しいニカを、僕は尊敬する。そんな強いニカを、僕は支えたい」

 何様のつもりなのかしら?
 私よりも年下のくせに。海で嫌われているって自分で話したばかりのくせに。いつもマルス様の後ろにいるくせに。いつもあんなに可愛い顔しているくせに。

 そのくせに、

「僕はヴェロニカ=スーフェンが欲しい」

 そんな一人前の男の顔で、私を口説かないで。
 そんな強い視線で、私を求めないでちょうだい。

 思わず、後先考えず――女として、あなたを求めてしまうから。

「……はい」

 私が声を絞り出すと、アトル様の顔が破顔した。その晴れやかな顔が、なんて可愛いこと。そんな嬉しそうな顔をされたら、私まで嬉しくなってしまうじゃない。

 私の涙は海に溶ける。

 もう……私の婚約者は、なんてずるい男なの?





 その後、迎えに来たマルス様は私たちを見てニヤニヤとしていた。

「なぁに~二人ともイイ顔しちゃって~。チューでもした?」

 してません。というか、そういう下世話なことは男同士で話してください。どうして私の方に訊いてくるのですか?

 そして、また泳ぐ練習を開始する。用意してもらった小魚を生で食べてみたり、例の白い宝石真珠の入った貝を見せてもらったり、また私たちを見てコソコソしてきた人魚とマルス様が喧嘩していたり。

 そんなことをしていたら、あっという間に夜がやってきた。

 海中も暗くなり、その分光る微生物の明かりが強く感じる。水の冷たさが身体の奥まで突き刺さるようだけど、星空の中を飛び込んだような美しさに、私はただうっとりするばかり。

 今でこそ、街を散策した時にアトル様がどってことないものを嬉しそうに見ていた気持ちがわかる。きっと今の私と同じように、全てが新鮮だったのですね。

 だけど楽しい時間も、もう終わり。

「すみません……なんか息が、苦しい……」

 喉元を抑える私に、マルス様が淡々と述べた。

「あら、薬が切れるのね。それじゃあ、急いで戻りましょうかぁ」

 アトル様とマルス様に連れられ、浜辺に戻った時には、ほとんど息が出来ていなかった。

「ふぁあっ」

 浜辺に四つん這いになると、久々に空気が肺に入ってくる。足に力が入る。身体が元に戻ったのだろう。だけど、あまりの苦しさにそれどころじゃない。

「ゆっくり、ゆっくり息して」

 アトル様に背中を撫でられる。その動きに合わせて、ゆっくり、そして深く呼吸を繰り返した。今回は、前に溺れた時のような二の舞はなさそうね。

「ありがとう、ございます。落ち着き……」

 だから油断していたのよ。人魚の魔法が解けたあと、私が下半身に何も身に付けていないなんて。白い臀部を、アトル様とマルス様に向けているだなんて。

「きゃ、きゃああああああああああああああ」

 そのあとの記憶が、私にはない。