花ちゃん、と苦しげな周の声に顔をあげようとする。
だけど、次の瞬間には、彼に腕を引かれて、力強く抱きしめられていた。瀬戸周の作り出す暗闇に私ははじめて触れた。いつも背中に耳をあてて聞いている鼓動は、正面から聞くと少し違って鼓膜に響いた。
海だ。包み込むものとは、全て海なのだ。
「大丈夫だよ」
周がどんな表情を浮かべているのか分からない。
ただ、困ったように眉を下げているような気がする。
「物理的な距離は離れるけど、大丈夫」
「嘘、だよ」
「花ちゃんに嘘をついたことなんて、俺一度もないんだけど」
「………」
あやすように背中を撫でられる。
離れたくない。でも、気持ちには応えられない。
こんなにどうしようもない思いをぶつけられるのは、周にだけだ。
「環境は変わるかも知れないけれど、花ちゃん、大丈夫だよ」
しばらく、苦しいくらいに抱きしめられているままでいた。
波の音が暗闇に紛れ込む。
周の肩に額を押しつけていたけれど、
「花ちゃん」ともう一度名前を呼ばれたので、ゆっくりと顔をあげる。
周は抱擁をわずかに解いて、至近距離で私の瞳をとらえて困ったように笑った。「心の問題になるけどさ、」頼りない前置きをして、周が涙のせいで頬にへばりついた私の横髪を優しくはらう。
周の角膜で美しい珊瑚が揺れている。
「花ちゃん、」
「………、」
「ずっとそばにいる」
この時、私は、もうそれで充分だと確かに思った。



