きみは幽し【完】





さっき、階段をおりるとき、ふたりで鼻歌で奏でた音楽だ。

名前も知らない、私が好きな曲。


私の手に戻ってきた懐中時計から溢れてくるのは、紛れもなく瀬戸周の優しさだと思った。優しさ、というものが分からなくても、私はこの瞬間だけでも、そう信じたかった。



波の音に、機械仕掛けの音楽が混じって、穏やかに調和する。


何故か、突然、涙腺に柔らかな矢が命中した。
じんわりと涙が浮かんで、視界がぼやけていく。

卒業式の後始末のための涙なのか、瀬戸周という人間に対する涙なのか、ふたりだけが理解できるこの音楽の思い入れの深度を測るための涙なのか、難しいことは分からない。

だけど、私は、どうしても泣きたくなってしまった。



「花ちゃん、コスメとか、そういうものじゃなくてごめんね」


ぽたぽた、とスカートに雫がおちていく。

周は、困ったように私の頭を撫でて、とんちんかんなことで謝った。
首を横に振る。


ごめんね、は、私の方だ。
君の眩しさに、私はいつも甘えている。



「これ、結局、何ていう曲?」
「渚のアデリーヌ。あのあと、思い出したんだ」
「好き」
「うん、懐中時計なんて花ちゃんに贈る人間はたぶん俺だけだから。
それでもう俺はいいって思うことにした」
「周」
「うん?」
「あまね、」