きみは幽し【完】






さっきから、ずっと、同じ音楽が頭の中で流れていた。

名前も知らない音符たちが、何にも拘束されることなく優雅に空気中を泳いでいる。


しばらくして、私は、鞄の中から手のひらサイズの円形を取り出した。

どうして、今日これを持って結婚式に行ってしまったのか、
自分でもよく分かっていなかった。


寂れた金色の懐中時計。
唯一、可視化できるかたちで存在している私たちの過去だ。



時計の蓋を丁寧にスライドさせる。時計のよこについたネジを回すと、機械仕掛けのか細い高音がぽろん、ぽろん、と生まれていった。




懐かしい。

変わらないものなんてほとんどないこの世界で、この音だけはあの頃のままであるような気がする。

だから、ずっとこの海で置いてけぼりをくらっている。




私は再び、瞼をおろした。


渚のアデリーヌ。鼓膜に、触れているものの正体が、分からない。
優しさが何であるのか、やっぱり、私は、これっぽっちも分からない。



それが、もしも恋とか愛とかであったなら、
きっと私たちは、今も、私たち、のままだったのだろう。