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「父……さん……?」

 僕はおぼろげながら呼ぶ。
 何が起こっているのか理解ができなかった。

 僕が告白したら、サナが発狂した。

 発狂したとしか言いようがない。泣きそうな顔をしたかと思えば、急に笑いだして。そうしたら周りの人達がバタバタと倒れだして。

 これが、魔女か。

 そう思わざるえなかった。魔法はなんども見たことがある。母さんの器用な魔法。サナの不器用な魔法。すごいな、便利な力だな。自分も使えたら良かったな。他人の特技のように思っていた、その力。

 だけど目の前の状況に、僕は初めて畏怖を覚えた。

 柔らかな風が通り過ぎるたびに、誰かが音もなく倒れていく。
 バタバタと。悲鳴もなく。泣き叫ぶこともなく。ただ静かに、ねむりに落ちていく。

 怖い。
 ひたすら笑っている彼女が。その力を行使している彼女が怖い。

 ただ僕には叫ぶことしかできなかった。

 サナと呼んだ。姉さんとも呼んだ。本当は彼女を揺さぶって、抱きしめたかったけど、見えない力に阻まれて、触れることすらできなかった。

 そんな時、猫の鳴く声が聞こえた。
 始めは靄か蜃気楼かと思った。
 だけど気がつけば、ゆらりとギギが人のかたちになり、僕の代わりにサナを抱きしめていた。

 大丈夫、そう告げる声が懐かしくて。何もできない自分が不甲斐なくて。

 僕の目から、涙が落ちる。その雫は、雨に呑まれてすぐにかたちを失くしていくけれど。そんな涙も、父さんはベンチにサナを寝かしつけてから拭ってくれた。

 背が高く、黒い服に身を包んだ父さんは、昔と何も変わらない。長い黒髪をひとつに結いて、穏やかな目で僕を見下ろす。

「クロ、大丈夫ですか?」
「え、あ……うん」
「しかし、クロもまだまだですね。女性を口説くのは、もっとスマートにやらないと。急に事を運びすぎです」
「それは僕も思ってたんだけど……て、今はそれどころじゃ――!」

 我に返ってサナの安否を確認しようとすると、父さんに頭をこづかれる。

「今しかないんですよ。私はすぐに猫に戻ってしまいますから」
「どういうこと?」

 僕に疑問に、父さんは苦笑する。

「私は母さんの使い魔です。母さんの魔法により、人間の姿で君たちの『父親』をしていました。今はサナの魔力を借りて無理やり姿を変えてますが……あ、もちろんサナは私の血を分けた娘ではありませんよ。さすがに人間と猫ではこどもは作れませんしね」
「それじゃあ、サナの本当の父親は?」
「戦争の最前線で亡くなったと聞いています」

 そっか、それしか感想がでない。

 何を聞けばいいんだ。僕は何をするべきなんだ。
 頭が混乱する中、今度は額を指先で弾かれる。

「いった!」
「だから焦りすぎだと言っているでしょう? ひとまずサナは大丈夫です。ただこれだけの魔法を使ったあとは虚弱状態となりますから、すぐに休息させないとお母さんの二の舞になります」
「そ、そんな――」

 お母さんは、魔法の使いすぎで死んだ。サナはどう見ても優れた魔法使いじゃないだろう。もしや、サナも……。

 体中の血の気が引く。だけど、弾かれた額だけがジンジン熱かった。
 父さんは、僕の目から視線を逸らさない。

「クロはもう人の上に立つと決めたのでしょう? だったら、他国とはいえあなたの為すべきことはなんですか? 当然、見えない場所に人を置いていたのでは? 誰に救護を呼ばせにいきますか? 倒れている人の安否を誰に確認させますか? 決めることはたくさんありますよ」
「ちょっと待って……」

 僕は弾かれた額に手を当て、仰ぎ見る。

 空は曇天。大粒の雨が降っている。身体が冷たくなってきた。このままじゃ風邪を引いてしまうだろう。足場もだんだん悪くなってきた。そのままでいて、良いことは何もない。

「……うん。ありがとう、落ち着いてきた。でも一番驚かせてくれたのは父さんだからね?」
「おやおや。手厳しいですね」

 手厳しいじゃないよ、まったくもう。

「ねぇ、父さん」
「なんですか?」
「僕、そんなに脈なしかなぁ?」

 その疑問に、父さんは肩をすくめて。

「私はサナも、当然クロにも、幸せになってもらいたいと思っています」
「……父さんから見て、あの騎士のこと何とも思わないわけ?」

 いつも寝室での情事も見ているんだろう?
 育ての親として、男に娘の身体が触れられている所をみて、何も思わないの?

 暗に匂わせてみても、父さんは笑みを崩さない。
 そして、消えていく。まるで今までの姿が幻だったかのように。雨の中に溶けていって。

「みゃあ!」

 僕の足元で、毛足の長い黒猫が鳴いていた。
 その猫に、僕は苦笑を向ける。

「そういや父さん、父さんのことはサナになんて説明したらいいの?」
「みゃあ」
「猫語なんてわからないよ」

 そう文句を言っても、ギギは再び「みゃあ」と鳴くだけ。
 そしてギギはサナのそばに寄り添うから。

「ジョナサン、いるかい?」

 僕は、反対を向いて声を張る。

「はっ、ここに」

 勇よく出てきた褐色髪の同級生は、異国の服を着ていた。詰め襟でミュラーの刺繍がふんだんに施された従者の青い正装は、雨の中でも色鮮やかだった。その後ろにも、控えているのが二人。

「良かった。無事だったんだね」

 安堵しても、すぐに頭を切り替える。
 彼らは道具だ。今の僕が使える三人の手足だ。

「ただちにアルベール殿下に伝令を。そしてキトンは倒れた者たちの救護に当たれ。屋根のある場所へ運ぶんだ。レインは近隣の店に当たり、救護者を運ぶ場所を確保して」
「は、はい……!」

 僕の指示に、返事は良いものの頭を下げたままジョナサンが動かない。

 どうしよう、何か不備があったかな?
 一抹の不安に眉間に力を入れつつ「ジョナサン」と呼ぶと、彼は我に返ったように顔を上げる。


「どうした? 一番に君に動いてもらわないと困るんだけど」
「す、すいません。ただ……」
「ただ?」
「わ、私たちの名前、全員覚えてくださっているのですか?」
「は?」

 こんな緊急時に何を言ってるんだ?
 本当なら説教でもするべきかもしれないが、その時間も惜しいし、正直気力がない。

「なに、君は僕の名前覚えてくれていないの?」
「そんなことありません! クロード様!」
「うん。だったら僕が君らの名前を覚えていても、なんもおかしくないでしょう?」

 別に、普通のことを言っているだけ。しかも、たったの三人だ。三つの名前を覚えられないほど、僕は馬鹿だと思われていたのかな?

 それなのに、彼らは新しいおもちゃを見る子供のように、目が輝いて。

 まったく……仕方ないなぁ。

 僕はパンパンと両手を打つ。

「はい、それじゃあ早く動いて。君らからしたら他国かもしれないけど、僕からしたら大切な故郷の国なんだからね! 手を抜いたら許さないよ!」
『はい!』

 そして、僕の配下たちが動き出す。
 数少ない、僕の配下。ミュラーにいけば、同じように命令をきいてくれる人が山程いるらしい。まぁ、まだ見ぬ人たちのことなんて、どうでもいいけど。

 それでも、僕に名前を呼ばれただけで、あんなに慕ってくれる人たち。

「面倒なものが増えちゃったなぁ」

 ため息を吐いて、僕は振り返る。
 雨の下で眠る彼女の傍らには、しっかりと黒猫がそばにいて。

「それじゃあ、サナは僕が運ぶね」

 僕はサナの膝と背中に腕を通し、持ち上げた。その時、ふと視線に気がついて顔を向ける。

「なに? 早く動けってさっき言ったばかりだと思うんだけど」
「はっ、申し訳ございません」

 僕とサナを交互に見ていたジョナサンが、気まずそうに言った。

「あまりにクロード様のお顔が……」
「は?」
「それでは、城に行ってきます!」
「……うん。急いでね」
「はっ!」

 そして、ようやくジョナサンは行動を始める。

「さて」

 その背中を見送って、僕は視線を落とした。

「ごめんね、サナ。寒いよね」

 サナの顔に、彼女自身の髪が張り付いてしまっている。払ってあげたくても、持ち上げたままではそれすら敵わない。

 ふと、足元の水たまりに目が行った。僕の顔。別に怪我をしているわけでもないし、特別いつもと変わらないはずなんだけど……。

「クロード様! こちらの商店が場所を提供してくれると!」

 さっそく仕事をこなした臣下に、僕は「今行く」と手短に言葉を返す。

 早く、サナの身体を拭いてあげないと。

 雨は、まだ当分止みそうにない。