日野川先輩は私の持つプリントを手に取り、長いまつ毛を伏せてすっと立ち上がる。

「日野川、先輩……?」

 私は途切れ途切れに日野川先輩の名前を呼ぶ。

 すると日野川先輩は虚ろな目を開いて、いつものように微笑んで私を見下ろした。

「今日はもう帰っていいよ。鍵閉めも僕がやっておくから」

 日野川先輩のそれが作り笑いだと見抜くのは容易かった。

 しかしそれを指摘するよりも先に、日野川先輩は私を突き放すような言葉を向ける。

「……はい」

 私は頷くことしかできず、日野川先輩に背を向けて帰る支度を始める。その間、日野川先輩と私はお互いに一言も話さなかった。

 緑と黒のチェック柄のマフラーを首に巻いて、鞄を肩にかけて振り返る。

「それじゃあ……お先に、失礼します」

「うん。お疲れさま」

 日野川先輩は補習に使っていたノートとプリントを視聴覚室のドア側にある木製の収納棚にしまいながら振り返り、そう言った。

 気まずい雰囲気に耐え切れず、私は早歩きで逃げるように視聴覚室から出て行く。

 ドアを開けた瞬間、廊下から入り込んでくる冷気に身震いする。

「——早く、〝人間〟にならなくちゃ」

 ドアが閉まる瞬間。日野川先輩のそう呟く声が聞こえた気がした。

 バタン。

 視聴覚室から出ると、一気に別の世界に隔離されたような心地になる。

 箏曲部の今日の演奏は終わっているのか、奥へと続く長い廊下は何の物音も聞こえない。

 チカチカと天井の蛍光灯が不気味に点滅する。

 ……私、日野川先輩を何か不快にさせるようなこと、言っちゃったのかな。

 台本読みが終わってからのことを思い返してみるが、思い当たるようなことは何もない。

 とぼとぼと重たい足取りで二階の下駄箱に向かおうとしたとき、カサッと足元から小さな音が聞こえた。

 視線を落として右足を上げると、私の上履きの下にくしゃくしゃに丸められた紙が二つ転がっている。

「……なんだろ、これ」

 廊下の床にしゃがみ込んで、その丸まった紙を二つ拾い上げる。

 ごみ? でも、部活が始まる前にはこんなもの、落ちてなかったと思うけど……。

 何気なく丸まった紙を広げてみる。

「……えっ」

 サァッと背筋が冷たくなっていく。

 くしゃくしゃになったその紙には、黒いマジックで殴り書かれたような文字があった。

〝死ね〟

〝演劇部やめろ〟

 紙を広げたことに後悔し、きょろきょろと周囲を見回す。静まり返った廊下には人影一つない。

 これって……。