婚約破棄するはずが、一夜を共にしたら御曹司の求愛が始まりました

 不器用に髪をくしゃくしゃしている田端を見かねて、紅は彼の頭に手を伸ばした。宗介ほどではないが田端も長身だ。背伸びをしてもあと少し届かない。

「ちょっと屈んでください」
「ほい」

 彼は素直に身体を小さくした。

「はい、取れました」
「サンキュ」

「……紅?」

 ひどい喧騒のなかだったのに、自分を呼ぶその声だけは周囲から浮き上がるようにはっきりと聞き取れた。

「え?」

 声のするほうを紅はゆっくりと振り返る。

 宗介だった。偶然といえば偶然だが、ここは彼の職場から目と鼻の先でおかしいことはなにもないだろう。それなのに紅はなぜか動揺してしまい、すぐに言葉が出てこなかった。
 宗介もなにも言わない。口を開いたのは田端だった。

「え、芸能人? すげーな、二ノ宮の知り合いなの?」
「桂木です。彼女の……親戚みたいなものです」

 宗介はビジネスライクな態度で田端に軽く頭を下げた。

「あぁ。俺は二ノ宮、いや紅さんの同僚で田端と言います。頼りない先輩で、彼女にはなにかと世話をかけてますが」
「いえ。優しそうな先輩がいて安心しました。今後とも彼女をよろしくお願いします」

 紅をよそに、ふたりは和やかに会話をしている。

「宗くんっ」

 大きな声をあげたので、田端が驚いたように紅を振り返った。宗介は紅を見ていなかった。

「すみません、約束があるので僕はこれで。じゃ、またね。紅ちゃん」