ようやく秋らしい風が吹き始めた九月の末、夫が仕事に励む部屋の前で軽く息を吸う。
 晩ごはんが出来たよ、そう告げる前に、今日は言うべきことがあった。

 コン、とノックして扉を開けると、書き物をしていた啓介さんが振り返る。

「夕食だね?」
「うん、でもその前に……」
「今日のメニューは?」
「サンマとワカメの味噌汁」
「おお、そりゃいいや。料理の腕もどんどん上がってきたもんね」

 食べる前から褒めてくれる彼に、思わず頬がほころんだ。
 何を作っても美味い美味いって言うけれど、どこまで本心なんだか。
 主婦業に専念するって言い出したのは私だから、料理は特に力を入れて練習した。
 本当に成果が上がっているなら、これほど嬉しいことはないだろう。

「今書いてるのが一区切りしたら行くよ。すぐだから」

 細面(ほそおもて)に黒縁眼鏡、日にも焼けていない彼は、いかにも学者という風貌だ。
 実際、大学で古文書の研究をしており、その内容は私には難しくて分からない。
 家でも本ばかり読んでいる超インドア派だけど、研究について語る彼は楽しそうで見ている私も幸せになる。
 ずっと横に座って、話を聞いていたいくらい。

 また背を向けて、ペンをさらさらと走らせる。
 つい、その気持良い音に耳を傾けそうになるのを我慢して、私は大事な要件を切り出した。

 ――墓参りのために帰郷したい。

 私の言葉を聞いて、啓介さんの動きが止まる。
 億劫(おっくう)そうに首を回すと、先ほどとは打って変わって、やや不機嫌そうに口を歪めていた。

「今年はやめとこう」

 返事は思った通り。あっさり却下されるのは、予想してた。
 今年は、だなんて、誤魔化しにもほどがある。
 結婚してもう五年、一度もお参りしていない。来年だって行くつもりはないのだ。
 そんなにイヤなのかなあ。
 計画に従って、少し粘ってみよう。

「お彼岸って言えば、墓参りだよね?」
「ホームシック?」
「そうじゃないよ。せっかくの連休だし、予定も無いから」
「みんなが帰郷するからって、真似する必要はないだろう。渋滞でうんざりするだけだ」

 啓介(けいすけ)さんは、わざとらしく肩を(すく)ませてみせる。
 細い肩だなあと思う。私の好みではあるけれど、少し不健康そうにも見えた。

 体力が落ちてきたのは本人も気づいているようで、朝は早起きして二人で散歩(ウォーキング)するようにしている。
 手を繋いで歩くのを恥ずかしがっていた彼も、最近は慣れてきてくれた。嬉しい。
 いや、それはいいんだ。
 彼の健康を突く、これで行こう。

「外出もたまにはいいでしょ。山の空気は気持ちいいよ?」
「それだよ。あんな山奥、考えるだけでぐったりしちまう」
「運動もしないと、贅肉増えても知らないから」
「冬にはいい防寒具になるんだよ」

 ああ言えばこう言う。夫婦の会話はいつもこんな感じ。

 夫婦、か。
 最初は気恥ずかしかったけれど、自分たちを夫婦と呼ぶのにもやっと慣れてきた。
 ずっとこのまま、二人で仲良く暮らしたい。
 健康を気遣うのも本心からで、彼が倒れたらなんて考えたら泣けてくる。

 啓介さんもそれを知っているから散歩を始めたんだろうに、墓参りとなったら運動嫌いに逆戻りだ。
 なんて強情なんだか。