とうに食べる手を止めていた母は、一言「ごめん」とつぶやいて歪ませた顔を私から逸らす。

 話は終わったとばかりに、無言で軽く右手を振った。
 あっちへ行け――不機嫌な母は、稀にこんな理不尽な態度を取る。
 犬を払うようなジェスチャーは極めつけで、私は大嫌いだった。

「なんで怒るのよ! 訳わかんない」
「謝ってるでしょ。一人にさせて」
「お父さんの話をしたから? 無理やり考えないようにするなんて、間違ってる」
「あんな男の話はやめて!」

 しまったという表情になったのは一瞬で、母はすぐに険のある目で睨み返してきた。
 あんな男(・・・・)、と言ったのか。
 先立ったことを、そこまで恨んでいると?

 私の気持ちに、何ら恥じるところは無い。
 父を敬って何が悪いのかと、堂々と母の苛立ちを受けとめ、何やらゴソゴソ動き出したミャアは無視した。
 今はカワウソの相手より、母だ。

 一分も経っていないのだろうが、再び母が口を開くまで、爪先が冷えるほどの時間を待った。
「もっと早くに話すべきだった」と前置きして、母は父について語り始める。
 怒鳴るでもなく、さりとて穏やかというには低い声だった。

「あいつは、私たちを捨てた」

 私が生まれる少し前のこと。
 父は飲み屋通いを始め、そこの店員と浮気をした。
 呆気なく母にバレて、二度としないことを誓ったらしい。

 しかし、その後もコソコソと逢瀬を重ね、五年後に相手を妊娠させてしまう。
 離婚を申し出たのは、父からであった。

 調停で二度ほど顔を合わせただけで、以降、会うどころか、手紙のやり取りも途絶えたと言う。
 家財も親権も放棄した父は、どこぞの女と逃げて消え、養育費すらすぐに滞った。
 救急隊員だったのは事実だが、現在の勤めが何かは分からない。
 東京のどこかで、家庭を築いているらしいが。

 身を呈して人命を救ったエピソードは、真っ赤な嘘だった。

「騙したのね。ずっと、十年以上も」
「作り話をしたのは母さん――あなたのお婆ちゃんよ。私は反対したのに、子供へ教えるには早いって」
「いくらでも、あとから訂正できたじゃん! なんで今頃言うのよっ」

 冷えていた身体が一気に熱くなり、息が詰まる。
 顔も朧げな父は、それでも私の心に仕舞われた大事な思い出だ。

 父を悪し様に罵ることを、許せというのか。
 いや、本当に母が言う通りの馬鹿なら、私も一緒になって恨むのが筋か。
 私たちを捨てた男を否定し、全てを御破算にして一から私の十年を塗り替えろ、と?

 グチャグチャだ。
 なぜこのタイミングで、受験を控えた時期に、こんな話を投げつけてくるのよ。
 私を気遣えば、隠し通すのが正解だろうに。
 なんで? どうして?

「お母さんもお婆ちゃんも、最低っ」
「仕方がなかったのよ。亜耶はまだ幼稚園だったから」
「言い訳ばっかり。私なんてどうでもいいんでしょ」
「そんなこと言わないで――」

 母を遮るように乱暴に立つと、押された椅子の脚が軋みを上げた。
 もう喋りたくない。

 さあ、さっきみたいに追い払えばいいじゃん。
 お望み通り消えてやる。

 懇談会なんて来るな――そう捨て台詞を吐こうとした時、ミャアが私のふくらはぎをポコポコと叩いた。