碧に日本シリーズを観戦する予定はないけれど、コーヒーもなくなったので、カップを返却口にもどす。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

返却口の向こうで、洗い物を下げているスタッフが、笑顔で空のカップを受け取った。

「あの、すみません」

「はい?」

「北浦さんはお休みですか? ここしばらく、見かけないので……」

ずっと気になっていることなら「聞くだけタダ」であり、「失うものは」最悪でもコーヒーショップ一軒、利用しにくくなる程度である。

「椿沙ちゃんですか?」

スタッフの女の子は少し眉を下げた。

「すみません。答えにくいことであれば、結構ですので」

「いえ。椿沙ちゃんのお知り合いですよね? 覚えてます」

彼女はにっこり笑って、本来なら教えないであろう個人情報を漏らした。

「椿沙ちゃん、八月いっぱいでお店辞めたんです」

「……え、そうでしたか」

「はい。卒論が忙しくなるからって」

「お忙しいところすみません。ありがとうございました」

「いえいえー」


風に押されるガラス扉を、体当たりするように開けたら、その風に顔を叩かれた。
コーヒーであったまったはずの身体も、すぐに冷えてしまいそうだ。
これからもっと寒くなれば、この短い往復はより辛くなるだろう。

仕事終わりに、コーヒーを飲む習慣があるわけではない。
コーヒーは好きだが、特にこだわりはない。
職場の中にある自動販売機か、隣のコンビニで十分だ。
この店は歩くと五分以上かかるし、かと言って車でひとブロック移動するのも面倒くさい。
だから本来、なかなか足が向かない店だった。

「ほんとに、寒くなったなあ」

たった三十分で、夜はいっそう深まり、桔梗いろの空に欠けた月が浮かんでいた。
風が落ち葉を運ぶついでに、碧の首筋から体温も奪っていく。

「寒いね」と言ったら、「冬ですからね」と答える声は、もう聞けないらしい。
それなら碧がここに来る理由は、ないのかもしれない。