椎野さんの体温は、怒りで上がっていくようだった。
それが感じられるのは、あきらかに距離が近いせいだ。
暗がりの中でも、椎野さんの大きな黒目は闇にまぎれることがない。

しかし後頭部に手が回ったところで、わたしは大事なことを思い出して、椎野さんを押し返す。

「すみません! わたしさっきパスタを食べて。その……ニンニクとお酒が……」

バッグで顔をガードして叫ぶと、椎野さんの気配が遠ざかった。

「迂闊なくせに、なんだか難しいひとなんだよなあ」

「これは単にエチケットの問題です」

「……わかったよ。そろそろ帰ろうか。車動かすから、ちゃんと座って」

シートに座り直し、シートベルトの位置を直したとき、

「椿沙」

と、名前を呼ばれた。
ふり向くと同時に、一瞬だけ触れた唇からは、コーヒーの味がした。
羞恥がよろこびを上回り、車内でできる限り距離を取って、バッグで顔の前にバリケードを作る。

「何してるんですか!」

「何って、聞かなくたってわかるでしょ」

引っ張られるバッグを必死に掴んで抵抗する。

「自制心の塊は!?」

「意外と脆いみたいだね」

「今しても、不快なだけですって!」

「甘い味よりはニンニクのほうがいい」

「いや! 無理!」

「そんなにいやがらなくても。……傷つくな」

バリケードから、椎野さんの手が力なく離れた。

「……また今度にしてください」

「今度っていつ?」

「……今週の日曜日」

「土曜日は?」

「金曜日の夜に友達と会う約束してて……中華を食べに行くので、すぐ次の日はちょっと……」

椎野さんはむすっとしたまま、指を折って数える。

「ダメ。三日は長い」

そう言い切ると、ポケットからミントタブレットを取り出して、わたしの膝に乗せた。

「……ですよね」

匂いが気になり、ため息をつくのさえためらわれるので、タブレットを歯の間という間に詰め込むつもりで噛み砕いた。
それからシートベルトをはずし、椎野さんと向き合う。

「……いったい何個食べたの?」

辛くて涙目になっているわたしに、椎野さんは呆れ顔で訊いた。

「入ってた分ぜんぶです」

肩を震わせながら、椎野さんはわたしを引き寄せた。

混じり合うことも消えることもなく、わたしたちのキスは、ニンニクとワインとコーヒーとミントタブレットと涙の味がした。