時刻はまだ八時半を過ぎたばかり。
残業よりも早いくらいの時間なのに、残業するよりも疲れていた。
頭がうまく回らない。
少しだけ飲んだワインも影響しているのかもしれない。
回らない頭で、通話ボタンをタップする。
『もしもし?』
「こんばんは。椎野さん、今大丈夫ですか?」
『大丈夫だよ』
「どちらにいます?」
『まだ職場だけど、そろそろ帰るところ』
「そうですか」
わたしが黙ると、椎野さんも黙った。
彼とだって、会話が途切れることもある。
それでも気詰まりでないのは、なぜなのだろう。
他のひとと、何が違うのだろう。
『俺に会いたい?』
にやけた声で椎野さんは言った。
「別に会いたくないです」と答えても、きっと笑って流すのだろう。
「会いたいです」
電話の向こうで、ほほえみの気配が消えた。
「会いたいです」
『……どこにいるの?』
「実は、椎野さんの車の前にいます」
走ってきた椎野さんに「早かったですね」と言ったら、
「いや、だって、あんまり素直だから、このひと死ぬんじゃないかと思って」
と、真顔で失礼なことを言いやがった。
「健康診断の結果は良好です」
「身体じゃなくて、メンタルのほう」
「それは自信ありません」
「いや、元気そうでよかった。とりあえず乗って」
しずかに走り出した車は、しかしわたしの家とは違う道をたどっていく。
「どこに行くんですか?」
「どこだろう。特に決めてない」
めずらしく真剣な面持ちで、椎野さんは車を走らせた。
タイヤがアスファルトを擦る音だけが、車内に流れている。
「もしかして酔ってる?」
「はい」
「どうりで」
「でもワインをグラスに半分程度ですよ」
赤信号で停まり、椎野さんはじっと信号機を見ていた。
そして青に変わって、走り出すと同時に口を開く。
「立ち入ったことを訊くけど」
「はい」
「誰かと食事だった?」
「はい」
「男のひと?」
「はい」
「……何か、された?」
「いいえ。何も」
椎野さんの身体から、力が抜けたのがわかった。
「何もないです。会話もつづかなかったし、とにかく早く帰りたかった」
窓ガラスに頭をあずけると、ひんやりとして気持ちいい。