彼らは十五分ほどして席を立った。
「ありがとうございました」
凛ちゃんが声をかけて見送る中、彼はいちばん最後にドアへと向かう。
その足取りに迷いやためらいは一切なく、視線はすでにドアの外へと向けられていた。
「ごめん、凛ちゃん。カウンターお願い」
言い置いてわたしはドアへ走ると、出る寸前の彼に呼びかけた。
「失礼ですが、お客さま」
ふたりは先に出ていき、彼だけが立ち止まってわたしを見る。
さっきまでは作れなかった笑顔が、不自然なほど完璧にできた。
「何かお忘れではないでしょうか?」
彼はおどろいて、自分たちが座っていた席をふり返った。
「……何もない、と思いますけど?」
「そうですか? それならいいんです。所詮、無責任な約束でしたからね」
「“無責任”…………」
不躾な態度に気を悪くした様子もなく、彼はわたしの言葉の意味を探っていた。
「ごめんなさい。本当にわからない」
「……手に針千本刺さって、失血死してしまえばいいのに」
大きくもない彼の目が、みるみる見開かれていく。
「ええええええ!! 君、あのときの高校生!?」
「本当に全然覚えてないんですね」
「覚えてるよ! 絆創膏! 絆創膏くれた子でしょ? 俺、手にケガしてさ。あれ、何年前だっけ? 覚えてるけど、変わり過ぎだって。これじゃわかんないよ」
手で覆った口の中で、「女ってこえー」とつぶやいた。
わたしの笑顔は、ふたたびかき消える。
たった一度の邂逅を、彼も覚えていてくれた。
そのよろこびで、心が剥き身になっていく。
態度が硬くなるのは、そんな心を保つための、精一杯の抵抗だった。
ムスッと立っているわたしに、彼は慣れた仕草で名刺を差し出した。
「椎野といいます」
手を出さずにいると、勝手にわたしのエプロンのポケットに突っ込んだ。
「ちゃんと覚えてるよ。『いつかまた会うことがあったら、そのときお礼します』って、約束したもんね」
否定も肯定もせず、じっとにらんでも、彼はにこにことわたしを見下ろした。
「それにしても大きくなったなあ」
「身長は変わってません」
「今いくつ?」
「161」
「いや、そうじゃなくて何歳?」
「二十一」
「あ、だったらお酒でも大丈夫だね」
ドアが開いて、中井さんが顔を出した。
「椎野さん、どうかしましたか?」
止まっていた時間が動き出したように、彼は靴先をドアへと向けた。
「ごめん、もう行く。じゃあまた」
彼は手をふって出ていった。ガラス戸越しに、その背中が遠ざかっていく。
「誰? 何の話?」
両腕にコーヒー豆の袋を抱えた凛ちゃんは、興味津々で身体をすり寄せてきた。
「ちょっと……知り合い」
「ええ~? ほんとにただの知り合い~?」
「しつこくすると、資料のコピーあげないよ」
「ごめんなさい! 仕事にもどります!」
カウンターにもどると、店内はいつもと何も変わっていなかった。
しずかに流れるジャズと、食器の触れあう音だけが聞こえる。
もう一度会えるとは思っていなかった。
さっきの出来事は都合のよい夢か妄想のように思える。
けれど、そっと取り出した名刺には、彼の名前の横に、ひとひらの桜がくっついていた。