鈴が、硬い表情を隠せないまま、自宅のインタ-フォンを押したのは、翌日の午後3時だった。玄関のカギは持っていたが、それを使って、中に入ることをなぜか遠慮しまう自分がいた。


「お疲れさん。」


扉を開いた夫の表情は、やはり硬かった。


(「お帰り」じゃないんだね・・・。)


そんなことを思いながら、鈴は靴を脱ぐ。そう言えば、昨日の電話でも『帰って来られないか?』ではなく単に『来られないか?』と夫は尋ねて来た。些細な言葉尻かもしれないが、心の内というのは、案外そんなところに現れることが多い。


久しぶりに見る自宅のリビングは、綺麗に掃除が行き届いていた。が、ふとキッチンに目をやると、一隅にコンビニ弁当の空き容器が、大量に大きなビニ-ル袋にまとめられているのに気付いて、思わず夫の顔を見た。


「なんか一人だと、飯作る気しなくてさ。部屋の片付けも全然してなくて、君が来ることになったから、慌てて片付けたんだ。コーヒ-煎れて来るから、座ってて。」


「うん・・・。」


そんな妻の視線に気付いた達也は、照れ臭そうにそう答えると、そそくさとキッチンに入って行く。一人暮らしが長く、身の回りのことも自分で出来るはずの夫の思わぬ言葉に、今の彼の荒んだ胸中が吐露された気がして、鈴の胸は痛む。


やがてコ-ヒ-カップを2つ、トレイに乗せた達也が戻って来て、鈴と自分の席の前にそれを置くと、席についた。


「ありがとう。」


そう言って、ブラックのまま、カップを口に運ぶ鈴。その妻につられるように、コ-ヒ-を口にした達也は


「退職の話、ケリついたのか?」


と妻に尋ねる。


「ううん、なんか平行線のまま。退職届受理してもらうのに、こんなに揉めるとは思わなかったなぁ。」


「別にそれだったら、無理に辞めることねぇじゃん。」


「う、うん。そうなんだけど、ね・・・。」


ここで早くも会話が途切れ、ぎこちない空気が流れる。1人は視線を外し、1人は俯き・・・沈黙の時間が続く。


「ごめん。」


これじゃいけない、そう心を励まし、達也が沈黙を破った。


「えっ?」


「ずっと連絡もしないで。このままじゃダメだってことくらい、わかってたのに。どうしても君の声を聞く、顔を見る勇気が出なくて・・・。相変わらずのヘタれですまん。」


「そんなことないよ。それは私も同じだし、私が達也を傷つけたんだから・・・謝らなきゃならないのは私の方。本当に・・・ごめんなさい。」


そう言って、鈴は達也に頭を下げた。