声がしたのは唐突だった。
 階段の上から、聞き慣れた穏やかな声が降ってきた。

「おや、浜北さん。こちらで会うとは珍しいですね」
「弦岡先生……」

 いつの間にそこにいたんだろう? 物音も気配もなかった。ハッとした沖田が身構える。
 分厚い本を数冊抱えた弦岡先生は、きちんと足音を立てて階段を下りてきた。

「東洋史研究室の学生さんに貸していた本が急遽必要になりまして、回収しに来たところでした。国史研究室では院生主体の読書会が開かれているようでしたが、浜北さんはそちらに用があるのですか?」
「いえ、あの……」

 読書会という名のゼミで読むのは、戦前の国史研究者の著作だった。古めかしい言葉で書かれ、考え方も古めかしい。研究対象とされた過去と、それを研究する歴史学者が生きていた当時という過去。入れ子になった二重の過去を両方とも勉強する必要があった。

 確か、発表の担当になったことがある。
 だけど、待って。誰の著作を読んでいたっけ? いつの時代を調べたっけ? 発表したとき、何を言われたっけ?
 今日は何曜日だっけ? 読書会は何曜日に開かれるものだったっけ?
 読書会、おもしろかったっけ? それとも、嫌なことでもあったんだっけ?

 覚えていない。研究室に行けば思い出せるだろうか。
 でも、もう体が動かない。研究室のある階へ上るのは、途方もない重労働だ。
 わたしは情けなくなってうつむいた。弦岡先生の革靴が視界の中で立ち止まる。ほどよくくたびれた、光沢のある茶色。

「無理はお勧めしませんよ。いろんな選択肢があるはずです。もとの所属研究室だけがあなたに学位を与える権限を持っているわけではない。そうでしょう?」

 わたしはうなずく。ますます深く下を向く。
 学位って何だっけ? なぜそれがほしかったんだっけ? それさえあれば、わたし、生きていけるんだっけ?

 肩に、また、温かい手が載った。さっきはすぐ離れていった手は、今度はちょっと力を込めて、わたしの肩を抱いた。
 沖田がいくぶん硬い調子で言った。

「ここへ案内しろって頼んだのはおれだ。浜北さんは最初から嫌がってた」
 ああ、と弦岡先生は得心したらしい。
「あなたが、沖田さんですか?」
「そうだよ。見りゃわかるだろう?」
「いえ、確信が持てませんでした。私は、新撰組の沖田総司という人物の顔を知りませんから」

「あんたは誰?」
「弦岡といいます。浜北さんを国史研究室から引き抜こうとたくらんでいる、腹の黒い一教員ですよ」

 引き抜く。わたしを。
 驚きに弾かれ、わたしは顔を上げた。
 弦岡先生は控えめに、にこにこと微笑んでいる。

「浜北さん、せっかく彼に大学を案内するなら、何も休講の日の棟内にいつまでも足を止めることもないでしょう。屋外を散策してごらんなさい。あちこちで木々の紅葉が見られます」

 弦岡先生はそれだけ告げると、会釈をして、階段を下りていった。

 ぽん、と沖田が私の背中を叩いた。
「それじゃ、あの先生のお勧めに従って、外に出ようか」
 肩と背中と。沖田の手が触れたところから、ぬくもりが広がっていく。沖田はわたしの手首をつかんで、ゆっくり歩き出した。

「ここまででいいの? 研究室、見たかったんじゃない?」
「別に。もう十分」
「気分屋だよね。きみが何をしたいのか、わたしにはよくわからない」

 階段を下りていく。手首をつかまれているせいで、足下がかえって不安定だ。間延びしたリズムで、一歩一歩、わたしは研究室から遠ざかる。
 沖田は喉の奥で小さく笑った。

「ない居場所って、どんなものなんだろうなって。それを見物してみたかっただけ」
「……所属すべきなのに所属できない場所、ということ?」
「そう。おれ、考えるのは苦手だし、話を聞いて思い描くのもうまくない。じゃあ、この目で見れば何かわかるかなって気がしたんだけど」

「何でそんなこと知りたいの? きみには帰る場所があるでしょ?」
「あるよ。そこに居場所がないなんて思ったことないよ。居場所があるのにこんな病持ちの体だから、うんざりするけどね」
「じゃあ、どうして?」

 沖田は答えなかった。またほんの少し笑う。そして、まったく別のことを言った。
「あんたもさ、まじめにやったぶん、ちゃんと返ってきてるじゃないか。おれ、あの先生は嫌いじゃない感じがしたよ。たくらみに乗ってあげたら?」
 不意打ちだ。

「でも」
「所属とやらへの義理立て? 自分が選んだ道だから変えられない? ない居場所なんか、捨てっちまえばいいだろう。少なくとも、死ぬってわかってて古い道にしがみ付くより、薄情でも何でも、生きてたほうがマシだ」

 沖田はわたしの手首を離さないまま、かたくなに表情を見せなかった。次第に押し殺されていく声は、しかし、殺風景な階段に反響して、残酷なほど鮮明に聞き取れてしまった。