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 デミグラスソースを温める匂いがしている。ハンバーグを焼く音がひっそりと響いている。
 わたしはグラスのお冷で喉を湿した。光に誘われるように、ガラスの向こうの庭を見やった。沖田の視線はじっとわたしを追い掛けている。

 胃の中で不快な痛みが暴れ出した。せり上がってくる吐き気を呑み込む。
 ふさわしい言葉を、ようやく見付けた。わたしは口を開いた。

「引け目ばっかりなんだよ。自分でも理由がはっきりしないけど、とにかく大学に行けない。どうしてなんだろうって考えれば考えるほど、人と同じ普通の暮らしが送れない自分が情けなくなる。引け目が増えていく」

 沖田が首をかしげる気配がある。
「大学って、毎日行かなけりゃいけない場所?」
 わたしは訂正した。わたしが問題にしたいポイントは、大学に行くかどうかって、そこではないから。

「大学は、わたしたち学生が本来、所属しなければならない場所。それなのに、今のわたしには、所属することがつらい。そこに行かなきゃいけないからつらいというよりも、所属することそのものがきつくてしょうがない」

「所属すること? ただそれだけのことが、つらい?」
「それだけって言うよね、やっぱり」
 だから、引け目ばっかりなんだよ。簡単なはずのこと、当たり前のことができないんだから。

「おれにはわからない。だから話してみてって言ってんだ」
「……わかってる」
「あんたは今、つらいことをしばらく遠ざけることにしている。休学って、そういうことなんだろう?」
 違う。休学は、自分の意思できちんと選んだわけじゃなかった。

「無理してでも所属し続けようと思ってた。どんどん息苦しくなることに気付かないふりをしながら。でも、結局は去年の今ごろ、体が音を上げた」
「体が?」

「いきなり倒れた。頭の中でバチンって、何かが鳴るのが聞こえたの。その後はものすごい頭痛が来て、光も音も何もかもが強烈な刺激になって、痛くて苦しくて耐えられなくて、さんざん吐いて、気が遠くなって」

 意識が薄れている間に病院に運ばれたらしい。倒れた場所が寮だったのは、不幸中の幸いだった。
 うっすらと目覚めると、まるで金縛りみたいに全身がこわばっていた。このまま死ぬんだろうか。ぼんやりそんなことを考えながら、また意識を失った。

「切石さんが口ごもっていたのは、そのときのことか。人間を守りたくて強い姿を手に入れたのに、それが仇になったことがあるって、気まずそうにしていた」
「わたしが倒れたとき、切石は寮で暴れたの。この間の柴蔵の豚みたいに、聴く耳を持たずにね。寮生たちもさんざん手こずった」

「そりゃそうだろう。我を失った切石さんが暴れて、よくあの寮が吹っ飛ばなかったもんだ」
「切石はすごく責任を感じてるみたいだけど、全然、あいつが悪いんじゃないよ。わたしの頭がどうかしてたせいだから。わたしが切石をそんなふうにしてしまった」

「あんたのせいでもないと思うけどね。あんたの病は中風ってやつだったの? いや、中風はもっと年寄りが突然かかる病か」

 中風とは、今で言う脳血管障害だ。
 脳の血管が破れたり詰まったりすると、一命を取り留めたとしても、後遺症が残りやすい。突然倒れることと、その後に起こる体のまひや言語障害などをひっくるめて、昔は中風と呼んでいた。

 わたしはかぶりを振った。
「わからない。ものすごい頭痛は、一晩寝たら引いた。意識がない間にいろんな検査をされたけど、異常は見付からなかった」

「体の病じゃあなかったのか? 栄励気が暴走でもしたのかな」
「どうなんだろう。何が引き金になったのか、それもわからなかった。いろんな原因が積み重なったせいだろうとは思うけど」
「原因って何? ああ、そうか。所属したくないって話に戻るわけか」

 わたしはうなずいた。朝の光がまぶしすぎて、まぶたを閉じた。