沖田総司を拾ってしまった。


 墓前に手を合わせ、振り返ったら、いた。一輪の花を手に、立っていた。
 刀を二本差している。総髪はざっくりした髷《まげ》に結ってある。全身がうっすらと透けている。

「うわ、本物」

 またやってしまった。引き寄せてしまった。
 沖田総司《おきた・そうじ》だ。名を訊くまでもない。直感的に理解した。なぜなら、わたしが今まさに思い描いていたのが、墓の下に眠る人ではなく、沖田だったから。

 風が吹いた。
 マリオネットの糸が切れるように、沖田は倒れた。一つ咳をする。震えた体が、すうっと透け始める。

 時が歪んでいる。のみならず、世の境目が歪んでいる。この世とあの世の距離が、今この場所だけ、ひどく近い。
 ざわり。
 首筋のうぶげが逆立った。

 風が起こった。いや、風に似た何かが。地の底から吹き上がってくるような何かが。空気の揺らぎとは違う、風に似た何かが。

 切石《きりいし》が言った。
「悪い気が起こりよる。あかんな。この男、引きずりこまれるで」
「どこに?」
「わしが知るかいな。わしは生まれたときからずっとこの世のものやさかい」
「ほっといたらどうなる?」
「消えるんちゃうか? ここからも、もとの場所からも」

 沖田が身じろぎをする。
 かさり。
 消え入りそうな衣ずれの音に誘われ、わたしは一歩、踏み出した。沖田のそばに身を屈める。

 沖田がささやいた。
「さ、な、さん……?」

 どきりとした。
「はい」
 返事をしてしまった。さな、というのはわたしの名前だ。

 ずん、と、心臓が圧迫された。一瞬、呼吸が止まった。わたしのものではないリズムで、呼吸が再開される。
 これは契約だ。名を呼ばれ、応じた。わたしの存在が沖田に紐付けられた。

 巡野がわたしの肩をつかんだ。
「何をしているんですか、さな! このままではあなたも消えますよ。あちらの世界に片足を突っ込んだら正気を保てなくなります。早く何か対処してください!」
 声に焦りがにじんでいる。

 わたしは袂《たもと》の巾着袋から、金平糖を一粒つまんだ。沖田の口元に金平糖を押し付ける。
「食べて。ひとかけらでもいい。飲み込むことができたら、こっちの世界に留まれる」

 沖田の目がぼんやりと金平糖をとらえた。わたしは沖田の口に金平糖を押し込んだ。乾いた唇は思いがけず柔らかく、そして熱かった。
 かり、かり。
 金平糖が噛み砕かれる。ああ、と、沖田はかすかに微笑むように息をついた。
「甘い」

 飲み込んだのだろう。沖田の体が質量を持った。熱を帯びた。半ば透き通っていた色が、はっきりと、この世のものになった。
 これもまた契約だ。ただし、今度はわたしが主となって結んだ契約だ。

 巡野は額に手を当てた。
「さな、あなたはまた面倒なことを」
「しょうがないでしょ。対処しろって言ったのはきみだよ」
「確かに言いましたけどね。ほかの方法は」
「思い付かなかったの」

「しかしまあ、なぜこんな人を呼んだんですか? 幕末の人斬りですよ。記録が十分とは言えず、人間性も不確かです。二十一世紀に招いてしまって、どうするつもりですか?」
「知らないよ。気付いたら、いたんだもん。そもそも、わたしのせいだけじゃないよ。人と人ならざるものの間に架かる道は、呼び合わなきゃ通じないんだから」

「彼は人のようですがね」
「そのくせ、人ならざるものしか通れないはずの道を通ってここに現れた。通らなきゃここには来られない。意味わかんないよ」

 切石が沖田を指差した。
「わけありっちゅうことや。ほんで、大将、こいつをこれからどないしよか?」
「どうって、捨てていくわけにもいかない」
「せやな。拾って帰ろう。病の気配も濃いいし、面倒見てやらんとな。こいつがここに来た意味も、追々わかっていくやろ」

 切石は長身をかがめると、猫でも抱え上げるように、ひょいと沖田を肩に担いだ。