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 膝を抱えて小さく座った私は、目の前の光景を眺めて大きく溜息を吐いた。

 気付けばあっという間にもう六月で、今私の目の前では体育祭が開催されている。
 運動が苦手な私は、この日が来るのが嫌でたまらなかった。


(ついに、この日が来てしまった……)


 避けて通れる道があるわけでもなく、ガックリと肩を落とすと再び溜息を吐く。


(何の為に、体育祭なんてあるんだろう。何で風邪ひかなかったのよ……、私のバカ)


 自分の健康すぎる身体を呪った私は、目の前で繰り広げられている競技を見た。

 今行われているのは、三年生による借り物競走。
 確か、ひぃくんも出場すると言っていた。


(何処にいるのかな……?)


 キョロキョロと軽く見渡してみると、クラスメイトらしき男の子と談笑しているひぃくんが目に留まる。
 どうやら次に出場するらしいひぃくんは、スタート地点で軽くストレッチをしている。

 合コンで助けられて以来、何だかひぃくんのことが気になっている私。
 そのままひぃくんを眺めていると、隣にいる彩奈が話し掛けてきた。


「どうしたの? 響さんの事、ジッと見つめちゃって」


 クスクスと笑う彩奈に、急いでひぃくんから視線を外して俯く。


「み、見てないよ……。ひぃくんなんか」


 相変わらずクスクスと笑いながら、「そう? 私の勘違いかー」と言った彩奈。
 本当は気付いているくせに、私をからかっているのだ。

 事実、勘違いなどではなく私はひぃくんを見つめていた。
 徐々に早くなってきた心拍数に、何だろうこれ……? と思いながらそっと胸に手を当ててみる。

 最近の私はおかしいーー。
 ひぃくんを見ると、何だか胸が苦しくなるのだ。


(変な病気だったら、どうしよう……)


 そんな事を考えながらも顔を上げると、再びひぃくんを見つめる。
 すると、スタートラインに立つひぃくんと目が合い、一瞬ドキリとする。


(き、気のせいだよね?)


 ひぃくんはともかく、私は大勢いる中で座っているのだ。そんなに一瞬で私を見つけられるわけがない。
 そう思うと、小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 すると、突然ひぃくんがヒラヒラと手を振り始めた。


(えっ!? わ、私に手を振ってるの?)


 キョロキョロと左右を見渡してみる。


「振り返してあげないの?」


 隣で私を見ていた彩奈が、そう言ってクスリと笑い声を漏らす。


(本当に、私に振ってるのかな……?)


 そう思いながらも、ひぃくんに向けて小さく手を振ってみる。
 すると、それに応えるようにして笑顔のひぃくんが大きく手を振った。


(あ、本当に私に振ってたんだ……)


 よく見つけたな、と感心をする。

 未だにブンブンと大きく手を振り続けているひぃくん。


(先生に注意されてるし……)


 再びスタートラインに整列したひぃくんは、相変わらずニコニコとしている。
 そんな姿を見て、大丈夫かな……。とちょっと心配になる。

 ドンッ。というピストルの音と共に、一斉に走り出したひぃくん達。
 その中でも、群を抜いて早いひぃくん。
 あんなに余裕そうに走っているのに……。

 昔から、スポーツも勉強も何でもそつなくこなしてしまうひぃくん。
 どこか余裕そうなその表情に、心配して損をしたと小さく息を吐く。

 会場のあちこちからは、ひぃくんを応援する女の子達の声が聞こえてくる。


(相変わらず、凄い人気だな……)


 そう思うと、なんだか少し気持ちが沈む。


(なんだろう……、これ)


 目の前で走っているひぃくんの姿を眺めながら、膝を抱えた腕にキュッと力を込める。


(こうして見ると、やっぱりカッコイイなぁ……。中身はちょっと変だけど。やっぱりカッコイイんだよね、ひぃくんは。……だから、周りが騒ぐのもわかる)


 そんな事を思っていると、バチッとひぃくんと視線がぶつかった。


(え……?)


 そのまま私の方へと向かって走ってくるひぃくん。


(え、何? どうしたの?)


 あっという間に私の目の前まで来たひぃくんは、フニャッと笑うと口を開いた。


「花音。一緒に来て」

「へっ……?」


 ひぃくんを見上げて間抜けな声を出した私。
 視線を下へと移してその手元を見てみると、そこには白いカードが握られている。


(あ、借り物競走……。私を借りに来たの? ……走るの苦手なんだけどなぁ)


 そんな事を思いながらも、わざわざ借りに来たひぃくんを無下にする事もできず、渋々ながらに重い腰を上げる。


「ひぃくん。私、走るの苦手……」

「うん、知ってる」


 私の言葉に、ニコリと微笑んで答えるひぃくん。


(知ってるなら、何で私のとこ来たのよ……。ただでさえ、体育祭になんて参加したくないのに)


 プクッと頬を膨らませると、ひぃくんを見上げてキッと睨みつける。


「可愛いー、花音っ。大丈夫だよ?」


 私の頬をツンッと(つつ)いたひぃくんは、そう言うと突然私を抱え上げた。



 ーーー!?



(こ、これは……っ! 世に言う、お姫様抱っこというやつでは!?)


「しっかり掴まっててね?」


 そう告げると、一気に走り出したひぃくん。


(こ、怖いっ! 落ちるっ、落ちるよひぃくんっ!)


 慌ててひぃくんの首にしがみつく。
 私を抱えているというのに、グングンとスピードを上げて走ってゆくひぃくん。
 周りでは、女の子達が悲鳴を上げている。

 流れる景色の中、私はひぃくんの背中越しにグラウンドを眺めた。


(……あ。校長先生が走ってる……。歳なのに……。借りられたんだ、可哀想)


 必死に走る校長先生の姿を眺めて、そんな事を思う。

 そのまま、あっという間に一着でゴールしてしまったひぃくん。


(凄いよ……、ひぃくん)


 私はただただ感心した。
 全員がゴールしたところで、マイク越しにお題と借りて来た物の発表が始まる。

 チラリと一番奥を見てみると、ゼェゼェと肩で息をする校長先生がいる。私の視線に気付くと、ニコリと優しく微笑んでくれる校長先生。
 どうやら、五着でビリだったらしい。


(仕方ないよね、歳だもん)


 そんな事を考えながら、司会進行役の人の言葉に耳を傾ける。


「えー。では、お題の発表と確認をします! まずは、五着!」


 五着の人からカードを貰うと、再びマイク越しに口を開く。


「お題は……。ハゲ!」


(!!? な、なんて恐ろしいお題……)


 チラリと校長先生を見てみると、その頭は確かに輝いていた。
 途端に、会場中から笑いの渦が聞こえてくる。

 なんだか急に怖くなってきた私は、隣にいるひぃくんを見上げた。
 その視線に気付くと、私を捉えて優しく微笑んだひぃくん。


(お題、何なんだろう……。不安しかない)


「続きましてー。四着! お題は……パンツ!」



 ーーー!?



(パ、パンツ!!?)


 四着の人を見てみると、右手を高々と上げている。
 その手には、男物のパンツが……。


(あのパンツの持ち主は今、ノーパンなのだろうか……)


 借り物競走のお題は、三年生が自ら考えたとお兄ちゃんが言っていた。


(怖すぎる……。何なの、このお題)


 競技に参加するまでちゃんと見ていなかった私は、借り物競走がこんなに恐ろしいとは思ってもいなかった。


(ひぃくん、やだよ私……。変なお題じゃないよね?)


 青ざめる私は、その後のお題も必死になって聞いた。
 中には普通の物もあって、全部が変なお題ではないようだ。


「えー。では、一着のお題は……」


 いよいよ来てしまった自分の番に、ドキドキとしながらひぃくんを見つめる。
 ひぃくんからカードを受け取った司会進行役が、手元のカードを見ると口を開いた。


「えー、お題は……。気持ちの良いもの!」


(……?)


 意味不明なお題に、私の頭上にはクエッションマークが浮かぶ。


「んー……。これは、中々難しいお題ですね! では、ご本人に聞いてみましょう!」


 そう言って、ひぃくんにマイクを向けた司会進行役の人。


(どういう意味だろ……?)


 意味のわからない私は、隣にいるひぃくんを黙って見守った。


「毎日ベッドの上で、優しく抱いてます。凄く気持ちいいよ?」



 ーーー!!!?



 ニッコリと満面の笑みで微笑んだひぃくん。

 一瞬にして静まり返った会場ーー。
 固まる司会者に、青ざめる私。視界の端に、私と同じくらい青ざめた校長先生の顔が見える。


「ね? 気持ちいいよねー、花音っ」


 青ざめる私を抱きしめ、そう言ったひぃくん。
 途端に、会場からは女の子達の悲鳴が上がる。


(ひぃくん……。その言い方は……っ)


 ーー人生終わった。

 そう思った私は、もうそれ以上何も考えられなかった。その場で突っ立ったまま、魂が抜けてしまったのだ。
 思考の停止してしまった私は、女の子達の悲鳴が聞こえる中、ずっと無言のままひぃくんに抱きしめられる。

 青白い顔をした私の頬に、スリスリと頬を寄せるひぃくん。固まったまま、ピクリとも動かない私。
 ボンヤリと見えるのは、私達の元へと走ってくるお兄ちゃんの姿。


 そのお兄ちゃんの顔も、私と同じくらい青ざめていたのだったーー。