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 ーーバレンタイン当日。

 人もまばらになった放課後の教室で、彩奈の席の前で立ち止まった私は、一度小さく息を吐くと彩奈に向かって声を掛けた。


「ーー彩奈」


 私の声に反応してゆっくりと顔を上げた彩奈。心なしか、その表情は少し緊張して見える。
 机の横に掛けられた紙袋をチラリと見ると、彩奈に向けて優しく微笑む。


「今から……、渡しに行くんだよね?」

「……うん」


 やはり緊張しているのか、彩奈はぎこちない笑顔を作ると小さく頷いた。


「そっか……。頑張ってね、彩奈」

「うん。ありがとう」


 そう言ってニッコリと微笑む彩奈。

 結局、私が彩奈にしてあげられる事といったら、こうして「頑張れ」と声を掛けてあげる事以外に何もないのだ。


(……あとは、お兄ちゃんと彩奈が上手くいくように祈るだけ)


 目の前で可愛らしく微笑む彩奈を見て、心の中でそんな風に思う。


「ーーかの〜んっ」



 ーーー!?



 突然ガバッと後ろから抱きしめられ、驚いた私はビクリと肩を揺らした。
 背後から(ほの)かに香る心地よい匂いに小さく安堵の息を漏らすと、振り返りざまに口を開く。


「……っもう。ひぃくん、驚かさないで」

「ごめんねー」


 フニャッと笑って小首を傾げるひぃくんは、頬を膨らませて怒る私を見てクスクスと小さく声を漏らす。


「まだ帰らないの? 早く、花音のチョコ貰いたいな〜」


 帰宅してから渡すと、予め伝えてある私のチョコ。
 それが余程楽しみなのか、ひぃくんはニコニコと微笑みながら私の顔を覗き込む。


「うん。……もう少しだけ待ってて、ひぃくん」

「うんっ」


 私の言葉にニッコリと笑って答えたひぃくん。

 何も協力ができないのなら、せめてお兄ちゃんのところへ行く彩奈を送り出してから帰りたい。


(きっと、今の彩奈は不安と緊張で一杯だろうから……)


 ゴソゴソと紙袋を漁りだした彩奈を横目に、そんな事を思う。
 紙袋から綺麗にラッピングされたチョコを取り出すと、それをひぃくんの目の前へと差し出した彩奈。


「……はい、響さん。義理チョコ。花音にあげたのとは味違いだから、花音と半分こにしてあげてね」

「うんっ。ありがとー」


 堂々と『義理チョコ』だと宣言する彩奈からチョコを受け取ると、私に向かって「半分コしようねー」と言ってフニャッと微笑むひぃくん。


「あっ……う、うん。そうだね……」


 それどころではなかった私は、チラチラと彩奈を見ながらも適当な相槌を打つ。
 そんな私の視線を辿って彩奈を見たひぃくんは、ニッコリと微笑むと口を開いた。


「翔なら、まだ教室にいたよ?」

「……えっ?」


 ひぃくんの発した言葉に、少しだけ瞳を大きく開かせて驚いた彩奈。

 紙袋からチラリと見える、ひぃくんの物とは明らかに違う豪華なラッピングのチョコ。
 それを指差したひぃくんは、小首を傾げるとニッコリと笑った。


「……それ、翔にあげるんでしょ?」

「えっ!? ……あっ、うん」

「まだ教室にいると思うよ?」


 少しばかり動揺を見せる彩奈に対して、いつもの様にニコニコと笑顔のまま話し続けるひぃくん。


「大丈夫だよ。渡しておいで?」


 その言葉に、カーッと一瞬にして頬を赤らめさせた彩奈。
 一度俯く素ぶりを見せると、すぐにその顔をパッと上げるとニッコリと微笑む。


「っ……、うん。ありがとう」


(……えっ? ひぃくん、もしかして……。気付いて、るの? 彩奈の気持ち……)


 間近で二人のやり取りを見ていた私は、驚きに見開かれた瞳でひぃくんを見上げる。


「私……っ。行ってくるね、花音」

「……えっ!? あっ……う、うんっ! 頑張ってね、彩奈っ!」


 彩奈の声に反応して勢いよくその視線を彩奈の方へと移すと、勇気づけるようにして元気いっぱいの笑顔を向ける。


「行ってらっしゃーい」


 私の横で、呑気な声を出してヒラヒラと手を振っているひぃくん。


(やっぱり……。気付いてる訳、ないよね)


 ニコニコと呑気に笑っているひぃくんを見て、そんな事を思う。


「じゃあ……またね。後で報告するから」

「うん。また後でね」


 小さく手を振る私に向けて一度手を振り返すと、少し照れたようにはにかんでからクルリと背を向けて歩き出した彩奈。
 その後ろ姿に向かって、小さく手を振り続ける。


「頑張れ……彩奈」


 私の口から、そんな言葉が小さくポツリと溢れる。


(大丈夫かな、彩奈……。お兄ちゃん、彩奈の事よろしくね)


「翔なら大丈夫だよ。ちゃんと大切に思ってるから、彩奈ちゃんの事」

「……へっ?」


(……えっ? な、何……!? ひぃくん……やっぱり、気付いてる……の……? 彩奈の気持ち……。し、知ってるの!? お兄ちゃんなら大丈夫って、どういう事っ!? 大切に思ってるって……、どういう意味っ!?)


 驚きに見開かれた瞳で隣に立つひぃくんを見上げる。
 相変わらずニコニコと呑気に微笑んでいるひぃくんからは、その真意は全く読み解く事ができない。


「……だっ、大丈夫って……何が!? 何が大丈夫なの!?」


(一体、ひぃくんは何を知ってるの!?)


 焦る私を見て、ニッコリと微笑んだひぃくん。


「花音。早く帰ろっ? 花音のチョコ、楽しみだな〜」



 ーーー!!?



(……えっ!!? こっ、ここでまさかの、ドスルーなのっっ!!? 一体、何が大丈夫だっていうの!? ……ねぇ、ひぃくんっ! スルーなの!? そうなのっ!? 私の質問は、ドスルーなんですかっ……!!?)


 ひぃくんを見つめたまま、プルプルと震えて立ち尽くす。
 そんな私を見てニッコリと笑ったひぃくんは、ルンルンと上機嫌な様子で私の鞄を取り上げると、そのまま私の手を取って教室を後にする。

 その後、何度か同じ質問をしてみたものの、もはやチョコの事しか頭にないひぃくん。
「花音のチョコ楽しみだなー」と何度も呪文のように告げるひぃくんの横で、私は一人悶々としながら帰宅するしかなかったのだったーー。