「全然わからない……」

 そう小さく呟いた私は、机の上に広げた教科書に突っ伏した。

 来週に迫った期末テストへ向けて、珍しく勉強をしている私。
 ……でも、全くもってわからない。

(何で数学なんてやらなきゃいけないの?)

 足し算引き算、掛け算割り算ができれば充分だと思う。

 私は顏を上げて教科書を眺めると盛大な溜息を吐いた。

(お兄ちゃんに聞くしかないかな……)

 できればスパルタなお兄ちゃんには聞きたくない。

 でも、先程から一向に進む気配のない真っ白なページを見ると、どうやらこのままやっていても一人ではできそうもない。
 このままでは、数学のテストで確実に赤点だ。

 諦めた私は、小さく溜息を吐くと椅子から立ち上がった。

 ーーーカラッ

 教科書を持って歩き出そうとしたその時、鍵の開いている窓からひぃくんが入ってきた。


「ーー花音。まだ起きてるのー?」

 その言葉に時計を見てみると、もう午後十一時を過ぎている。

 いつも午後十時までには必ずベッドへ入っている私。
 きっと、こんな時間まで明かりの付いている私の部屋を不思議に思ったのだろう。

「うん……勉強してたの。でも、全然わからなくて……」

 しょんぼりとした顔でそう告げると、ひぃくんはクスリと笑って口を開いた。

「じゃあ、教えてあげるよ?」

 フニャッと笑って小首を傾げるひぃくん。

 突然、私の目の前に現れた救世主。
 なんて幸運なのだろう。

 私はキラキラと瞳を輝かせると、ひぃくんを見て口を開いた。

「……本当っ?!」
「うん。何がわからないの?」

 ニコニコと優しく微笑むひぃくん。

 なんて優しい救世主様。
 お陰で、スパルタから逃れられた。

「数学がね、全然わからないの……」
「どの問題?」

 床に転がるクッションの上へ腰を下ろすと、私はテーブルに広げた教科書を指差した。

「ここ……」
「……うん。ここの何がわからないの?」

 私の隣に腰を下ろしたひぃくんは、一度教科書に目を通すと私を見て優しく微笑む。

「……何がわからないのか、わからない」

 小さな声でそう答えた私はそのまま顔を俯かせた。

(何がわからないのかがわからないなんて、私はなんてバカなんだろう。これじゃ、ひぃくんだって教えられないよ……)

「大丈夫だよー、花音。ちゃんと教えてあげるからね」

 そう言って優しく頭を撫でてくれるひぃくん。

「……うん。ありがとう」

 俯いていた顔を上げると、私と目を合わせたひぃくんが優しく微笑んでくれる。

 その顔にホッとした私は、気持ちを切り替えて再び教科書に視線を移すと、隣で優しく説明してくれるひぃくんの話しを真剣に聞いた。



 ※※※



「凄ぉーい! できたよっ、ひぃくん!」
「うん。凄いねー、花音」

 ノートを掲げて喜ぶ私を見て、ニッコリと微笑むひぃくん。

 ひぃくんのお陰で次々と問題を解いていった私は、数分前までの自分からは想像もできない程の上達に感激した。

「ありがとう、ひぃくんっ!」
「良かったねー。じゃあ、次はこれね?」

 ひぃくんは嬉しそうな顔でそう言うと、ニコニコと微笑みながらテーブルの上に紙を置いた。

(……今の私なら、何でも解ける気がするっ!)

 たったの数問で謎の自信が付いた私は、この勢いでどんどん解いてみせると、もはや暴走気味に張り切っていた。

「はい、花音」

 ひぃくんに差し出されたペンを受け取ると、私は満面の笑みで頷いた。

「うんっ!」

 そのまま勢いよくペンを走らせようとしたその時、目の前に置かれた紙を見て瞬時にその動きを止めた私の指。

(……え……これ、は……)

 思わず笑顔が引きつる。

 私の握っているペン先の、僅か数センチ先に置かれた一枚の紙。
 それは、ひぃくんの署名入りの婚姻届けだった。

 手元を見ると、いつの間にかシャーペンからボールペンへ変えられている。

(なんて巧妙な手口……。浮かれてて全然見てなかったよ……)

「……ひぃくん。何度も言うけど、私まだ結婚はできないよ……」

 引きつる顔でひぃくんを見ると、私の言葉にショックを受けたひぃくんが大きく目を見開いた。

 私の誕生日が来てからというもの、事あるごとにこうして婚姻届を出してくるひぃくん。

(私、何度も断っているのに……)

「じゃあ……いつならいいの? 明日?」
「……明日でも無理だよ、ひぃくん」

(どう説明すればわかってくれるのかな……)

「私、まだ高校生だし……ね?」

 引きつる顔で懸命に笑顔を向ける。

「なんで……? 高校生だから何? 花音は俺のお嫁さんでしょ?」
「いやぁ……」

(お願い、そんな目で見ないで……)

 今にも泣き出してしまいそうなひぃくんを前にして、思わず目を逸らすとどうしたものかと思案する。

 ひぃくんの言っているお嫁さんとは、ずっと彼女という意味だと解釈していた私。

 それが、どうやら本気でお嫁さんだと言っているみたいなのだ。
 ……勿論、嬉しくないわけではない。

 でも、高校生の私には正直まだ結婚なんて考えられない。

「……嫌……なの? 今……嫌って……言った……の?」

 小さく呟く様なその声にチラリと視線を向けてみると、真っ青な顔をしたひぃくんがガタガタと震えている。

(え……。私……嫌だなんて言った? いつ?)

「……花音は、俺と一緒にいたくないの?」
「えっ? ……いっ、一緒にいたいよ、もちろん」
「じゃあ、どうして結婚してくれないの?」

 真っ青な顔をして見つめてくるひぃくんに、思わず口元がピクリと引きつる。

「いやぁ……。だって私、まだ高校生だもん……」

 さっきと同じ答えしか返せない私。

 これ以上どう伝えろと?
 私のポンコツな頭ではこれが限界なのだ。

 顔を引きつらせて小さく笑い声を漏らすと、更に真っ青になったひぃくんが口を開いた。

「また……っ。また嫌って……言った……」
「……えっ?! い、言ってないよ!」
「言ったよーっ!!」

 突然大きな声を上げたかと思うと、ついにメソメソと泣き出してしまったひぃくん。

(嫌なんて言ってないよ、ひぃくん……)

 私は小さく溜息を吐くと、ひぃくんの手をキュッと握った。

「ひぃくん……。私ね、ひぃくんの事が大好きだよ? でもね、まだ結婚はできないの。お願いだからわかって?」

 私の言葉にピクリと肩を揺らしたひぃくんは、勢いよく顔を上げると私の肩をガッチリと掴んだ。

 ーーー?!

「本当っ?!」

 さっきまで流していた涙はどこへ消えたのか、ひぃくんは瞳を輝かせて嬉しそうに微笑んでいる。

(一体、何がどうなったの……?)

 驚きに固まったまま見つめていると、私を見てニッコリと笑ったひぃくんが口を開いた。

「花音は俺のこと大好き?」
「……えっ? ……う、うん。大好きだよ?」
「じゃあ、花音からキスして?」

 ーーー?!

 小首を傾げてフニャッと微笑むひぃくん。

 私の顔は一気に熱が集中し、見る見る内に真っ赤に染まった。
 きっと、今の私は茹でダコだ。

「……えっ?!! ムリムリムリムリっ!!!」

 全力で首をブンブンと横に振る。

(ひぃくんからされるのだって恥ずかしいのに、自分からだなんて……そんなの絶対に無理っ!)

「じゃあサインして?」

 ニッコリと笑って婚姻届を差し出すひぃくん。

「ひぃくん、だから結婚はまだ……」
「じゃあキスして?」

(え……。その二択なんですか?)

 婚姻届から視線を移した私は、目の前でニコニコと微笑むひぃくんを見つめて顔を引きつらせた。

(……本当に? その二択しか、私に残された道はないの?)

「むっ、無理っ! どっちもできないよ、ひぃくん!」
「どうしてー? だって花音は俺のこと大好きでしょ?」
「そういう問題じゃないのっ!!」

 真っ赤な顔で大きな声を上げた私は、ニコニコと微笑むひぃくんを見て握り締めた拳をプルプルと震わせた。

「花音は我儘だねー。でも、そんな花音も可愛いよ」
「……」

(……これは私の我儘なの? ひぃくんの我儘ではなくて……?)

「じゃあ、わかった。これは俺が代わりにサインしとくねー」

 そう言って小首を傾げてフニャッと笑ったひぃくん。

「……えっ?! ちょ、ちょっと待って! ひぃくん、私はまだ結婚なんてしないよ?!」

 焦ってひぃくんの腕を掴むと、私を見たひぃくんがニッコリと微笑んだ。

「じゃあキスして?」

(あ、悪魔だ……。目の前で天使の微笑みを見せるひぃくんが……悪魔に見える。これはもう、立派な脅しでは……?)

「キッ、キス……したら、結婚の話しはもうしないでくれる……?」
「えー? なんの事?」

(……やっぱり悪魔だ)

 ニコニコと嬉しそうに微笑むひぃくんを見て、私は思いっきり顔を引きつらせた。

 そんな私を見てクスリと笑ったひぃくんは、優しく微笑むと口を開いた。

「ちゃんと約束するよ? 高校卒業するまではね」

 そう言って私の手をキュッと握ると、優しく微笑んだひぃくんはそっと目を閉じた。

 瞼を閉じていても充分すぎる程に綺麗なその顔に、思わず見惚れてしまった私は目の前のひぃくんをジッと見つめた。

(……なんて綺麗なんだろう。本当に彫刻みたい)

「花音、まだー?」
「……へっ?! な、何が?!」

 瞼を閉じたままのひぃくんが突然口を開き、驚いた私は間抜けな声を出してしまった。

「キスだよー。早くちょうだい?」

 瞼を閉じたまま優しく微笑むひぃくんに、なんだかキュンッとしてしまった私。

(恥ずかしいけど……。でも、それ以上に大好きだから……)

 私はゆっくりとひぃくんへ近づくと、そっと優しく唇を重ねた。

 ーーーバンッ

「さっきから煩いぞ! 何時だと思っ……?!!!」

 ーーー?!!

(おっ……! お兄ちゃん……っっ?!!)

 突然現れたお兄ちゃんは、私達を見るとそのまま固まってしまった。

 それもそのはず……。
 お兄ちゃんが見たのは、私がキスをしているシーンだったのだからーー。

 私の顔は赤から青へ変わると、お兄ちゃんを見て冷や汗を垂らした。

「お前ら、今……何してた……?」
「キスだよー? 花音からしてくれたんだー」

 ーーー?!!!

(ヒッ……?! や、やめてっ! お願いだから黙ってて、ひぃくん……っ!!)

 ニコニコと微笑むひぃくんに思わず仰け反る。

(なんてマイペースなの……っ?! ひぃくん、今の状況わかってる?! お兄ちゃんにバレちゃったんだよ?! もう、私達に明日はないよ……っ。きっと殺される……私はこの鬼に、殺されちゃうんだ……っ!!)

 扉の前で立ち尽くしているお兄ちゃんは、驚きに見開かれた瞳で私を捉えるとその顔を真っ青に染めた。

 私は額に冷や汗を垂らしながらも、真っ青な顔で懸命に笑顔を作る。

 笑ったところで何の解決にもならないのに、私は懸命に作った笑顔を引きつらせながら、お兄ちゃんを見つめ返してハハッと小さく笑い声を漏らしたーー。