人生に、後悔という名の疑問はつきものだ。
なぜ生まれてしまったのか、
なぜ期待に沿えなかったのか、
なぜ出来損なったのか、
なぜ、逃げ出したのか。
なぜ出会ったのか、なぜ関わったのか、
どうして付き合い、強引に別れたのか。
言い出すときりがない。

あれほどまでに冷酷で厳格だった父がこの世を去り、自分の持病も生死を彷徨うほど深刻となり、結果として母親に会うのがまた億劫となる日々。
もうさすがにこの歳にもなって、わざとらしく愛想を振りまいたりもしないのだが、
学校も辞めさせられ、実家で安静にしなければならない。
いつまで過ごしても、広すぎる空間。
そんな中に独りでいた母は当初、俺が側にいてさも嬉しそうだった。
だが、やがては。
かわいそうな美礼。
今楽にしてあげる。
そう言って、華奢な女性に似つかわぬ刃物を突きつけられる。
腹に突き立てられ、想像を絶するような苦痛の色が漏れ出し、やがて意識が遠のく。
それでももう悪い気はしなかった。
改めて自分の居場所などどこにもないことを知ったからだ。
それは当然、自分の中に秘めたかけがえのない幻想のように思えた。
その幻想が、高揚感、快楽へまで変わると、一旦楽になれる。
不思議と、そういった禁断の行為にうつろうとするときは、いつも決まって冷静で穏やかな気分だったのだ。

先輩...、
せんぱい。
...、
あれ、
なんだろう、
なつかしい声がする...。

...夢か。
最近夢を頻繁に見るのできちんと目覚ましをかけなければ起きられない。
目が覚めると、またいつものように自分に何が起きたのかを確認する。
ここ数年間、ずっと自分が自分であるという意識を留めておくことができていない。
忘れているわけではない。
ただ、それが他ならぬ自分として認識できるのに多少の時間を要するだけだ。
眩しい光がさして、妙にすっきりと物が分断された、
ばかに虚無感溢れる部屋、
そこにぽつりと倒れた椅子、それと、天井あたりから吊り下げられたロープ。
今としては気味が悪く、昨夜の高揚感とは一転して、汚物でも見ているような気分だ。
それにしても。
ここまで具体的な行為に踏切ろうとした割には、まだこうしてピンピンしている。
昨夜はまたどうして踏み留まれたのだっけ。
その理由を思い出すのにやはり少し時間がかかった。
そういえば、スマホに久しぶりの電話が。
間違い電話だと言っていたが、最終的には...。
明日も、会ってくれるって...。

昨日は、
きのう、は...。
誕生日だったらしい。
そんなこと、昨夜は寸分たりとも意識などしていなかった。
まるで、冗談で皮肉のように、誕生日を命日にしようとしていた。
まあ、いつにも増して昨日の自分は馬鹿だったな。
ただ、そこまでに、しても。
「ぅ...。」
息が詰まる。
ああ、苦しいのだ。
そんなことは分かっている。

総務にいる諜報員のような女性から言われたこと。
物を捨てて絶望するよりかはとっておいた方がマシだ。
人生は今だけじゃない。
余計な苦しみを感じている暇があるのなら少しはまともに疲労しろ。
...笑える。
まったくもってそのとおりだ。
彼女自身も、そんな言葉は無意味だと分かっているのだろう。
というより、ある一種の軽蔑に近いような表現だ。
それこそ、俺のことを俺として引き留めている力があることにも驚きだが。
それも彼女なりのおもいやりだろうか。
乾いて固くなったパンをかじるくらいには意味がある言葉だな。

アナログの秒針の音や、機械的な文字、図形の羅列が心地良い。
これも、時計や文字、図形(かれら)に与えられた一方的な仕事だ。
そう。
仕事には不思議な力がある。
幼いころから、自分の身体につけられた匂いと同じように。
仕事というより、使命だろうか。
集団なんて、わがままな正義感の集合体だから。
まあしかし、
文明だなんだとそういった理性的な試みからくる個人の社会的な営みは。
きまって心を穏やかにする。
そうやって疲労するのも確かに悪くはない。
これも度合いをすぎれば俺の大好きな自重、いや、もはや自傷と同じだから。
なんとも愚かな思考だろう。
先の総務の子や周りの人間が知ったらまた軽蔑の対象だ。
とはいえ、軽蔑されるのは慣れているから問題はない。
ただ、そんな穏やかなときの中で狂わせを生じるのは、
決まってあの女だ。


突然、過去の話をすると言ってきた。
しばらく意識がなく、精神に異常をきたしている俺としてみればまだ過去だとも言いきれないような話だ。
すっかり人の目を気にしはじめ、見た目も随分変わったこの女が、
まさか自分とやり直すだの持ち出してくるとは。
その矛盾は果たして俺の心を抉るつもりだろうか。
女の復讐というやつだろうか。
...。
ただ、
もちろんその約束はおぼえている。
今にしてみれば、愚かだとしか言いようがない。
、、、
、さあ、
なんと言って拒絶しようか。
なんて言えば、良いのだろうか。
素直にその気はないと言えばいいのだろう。
その気はないと。
息が詰まるのを隠すのは大変だ。
彼女にはいつぞやもそうやって偽善を使い果たした。
愛想を尽くしたのだ。

そうして、意もしないことを繕うには多大の負担がかかることを知った。
遠く見える雑踏と、街灯。
また、箱庭を見るような俯瞰的な視点。
冷たい夜に切り離されていく、自分という感覚。
また、まもなくこの踏切を通過する快速電車にでも飛び込もうとしているのだろう。
そうだ、もういってしまおう。
いつものそのぐらいの、気分で。
でも、
今回は、高揚感というよりたまらぬ孤独感だ。
はたまた、愚かだろうか。
このようなことをしても、許されることなど何もないのに。
今まで苦労してきたことも、自分の存在すらもやがて虚しく忘れ去られるだけなのに。
いつもこうやって考えて、踏みとどまって、一応理性を保とうと試してみる。
自分がこのまま生きていてもいいという理由を見つけ、納得するために。
ただし、それが功をなすかどうかはいつも別問題。
踏切に音がなり始めて、いよいよ本質的な欲求と葛藤する。
...もうしんでもいいか。
、しにたい。
つらいから。
もういきていてもいいことなど、
なにも、ないのだから。
ほんとうに、そうおもうときって。
ふざけて真似事をするときとちがって、
ほんのうが、
生きていたい、
しにたくないと、
傷が開いた心の底から熱く血が溢れ出てくるようで、
きもちわるい、、
だめだ、
もう、たえられ、
...、

俺の人生に、過ちはつきものだった。
生まれてきて申し訳ない、
期待に沿えずすみません、
出来損ないですみませんでした、
逃げ出してごめんなさい、
出会って、声をかけてしまってごめん、
好きになってしまって、
あんなにひどいことをいって、
ひどいこと、して、
ごめん、ごめん、
ごめん...。

走馬灯に、
かすかにえづきそうになって、
それで決意し、
そこまで踏み出そうとするまさにそのときだった。
力強く腕を掴まれ、引き戻される。
電車の音...。
あれ、
...この男、誰だっただろう。
などと呆然としている間に、難癖をつけられ、飲食店へと引きずり込まれた。
そこで、その男に酒を飲まされる。
とりあえず、いつも通り言動には気をつけなければ...。
頭が痛い。
酒を飲んだ途端、自分の甘いにおいがきつくてむせ返りそう。
そんなことで気概を損ねるなら、
また、久しぶりに沢山食べてみようか。
おなかがすいた、から。

意識はあるはずなのに、目が開かないし、身体が思うように動かない。
気分が悪い。
食べすぎてまた戻しそう。
ぐったりする、
うごきたくない。
...まあ、そんなことよりも
何か余計なことを吐かされてしまった気がする。
個人的な感想は言わないように心がけたつもりだったが。
どうしてあの女と別れたなどと
きかれたときには...。
幼児期に受けた虐待に、持病、母親に刺されたことなどは間違いなく暴露した。
なぜ話したかなんて、
まあ、つらかったからだろうな。
...。


なつかしい声がきこえる。
自分を呼ぶ声。
また夢か。
またいつかは消えてしまうのかなぁ。
もう、そんなのいやだな...。
ゆいの...。
ゆいの、
ごめん、
ごめん...。

ゆるして...。


渡された水を飲んで、少しばかり身体の自由がきくようになってくると、またどうしようもなく後先を考えるようになった。
とりあえず、見られた。
少なくとも2人には弱みを握られた。
後日、どうやって誤魔化せばいい。
これからどうすればいい?
さすがにそんな力量、もう残っていない。
あとは成すがままといった心持ちだった。
部屋に気心知れない他人を入れるなんて今まではそれこそ考えられないようなことだったのに。
それでもって、大雑把な淹れ方のもうぬるくなった茶を手渡される。
そんな目の前の彼自身もよほど冷静ではないようで、あからさまに睡眠薬が混ぜてあった。
なるようになったら、全部自分のせいだ。
せめてそんな遺書でも書ければよかったと後悔しながら、茶を飲み干した。
こうして俺を寝かすために部屋に入り、不必要に物色して、致死量を意識した錠剤や、捨てるのを忘れたロープ、それ用の不自然な椅子を見て、顔の血の気がなくなるたったひとりの友人。
ああ、なんて不憫なのだろう。
この、ある意味残酷な事実をこいつは、この後外で待っている彼女に直接伝えるつもりなのか。
そうなれば、俺もつくづく阿呆だ。
いや、都合が良すぎるのだろうな。
まんまとここまで引き戻されるとは、実にあっけない。
で、も...。
やっぱり生きていたかった。
たすけてくれて、
本当にありがとう。
少しだけ、
ほんの少しだけ。
ちょっとだけそう思って...。
...。
...眠い。
久しぶりにちゃんと眠ろうか。
それはそれで、俺にとってはいいことだ。
だって、そうすればまだちゃんと生きられるわけだから。

...あした、あえるかな。
あえれば、いいな。
ゆいの、に、あいたい...。


朝起きると誰もいなくなっていた。
それで、まもなく、昨日食べたものを戻してしまう。
...またか。
まあ、それも正常な生理現象なのだろうな。
つまるところ、俺は身体より心が弱いってことだ。
本当に情けない。
でも、それから転じていざ通勤を前にすると気分は悪くない。
これなら彼女にも一応、表面的に謝罪できるだろう。
それでこちらへの干渉が留まるかというのはまた別箇の問題ではあるが。
それが弊害ならばまた...
なんとか妥協せず拒絶意思を示して ...

とりあえず余計な思考を挟まず、
このまま仕事に行こう。
今のところは特に止められている訳でもなさそうだから。


しかし、
彼女の気遣いは思ったよりも支障をきたす。
だから、弊害排除のつもりで、
直談判をしにいった。
そうすると、やはり自分の非力となってしまった言動に、すかさず彼女が食い下がってくる。
いい加減、自分を傷つけるのはやめろ、
だそうだ。
対抗して何か言おうとすると、思いの外散々に指摘され、俺のことを恩着せがましく、本当は嫌いだとまで言わせてしまう始末。
...ああでも。
嫌い、
おれがきらい...か。
それはそれでくるしい、な...。
苦しくて
いたくて...。
仕方がない、な。
冗談だよな...。
まだ、おれのこと ...。
すきであって、ほしい...。

こうして、
本当に彼女と話してみた、
その真意が分かった。
...今更ながら、もう耐えられていないのだ。
もうこれ以上は無理なんだ。
自分を助けてほしい。
素直にそう思っていることを分かってほしかったからだ。
俺は今まで、彼女の幸せを願ってきた。
だからこそ突き放したのに。
もう、限界だなんて。
必死の抵抗も虚しく、右足の踵をあげる癖があるという信憑性の怪しい情報まであげられた時点で
もう折れた。
ただ、
...結野が大好きだ。
俺の中のさいごにのこった確かなことが、
たった、それだけだなんて。
...バカだな。
ほんとにばかだ。

でも、
でも...。
家にまで連れてきて、
抱きつかれて。
こうして触れ合うと、あったかいな...。
その甘えた声が、なつかしくて、誰よりも愛おしい。
衝動的にキスをしても、結野はそのまま受け入れてくれる。
ああ、
しあわせはやっぱりこういうことなんだな...。


...目が覚めると、結野がいる。
夢ではない。
現実だ...。
うれしい。
側にいてくれるだけでこんなにも、しあわせな気持ちになれるなら。
もう、手離したくない。
例えそれが、結野にとって最善の選択ではないとしても。
あんなに苦しい思いをするくらいなら。
自分のしあわせのために、彼女を縛り付けて、ボロボロにしたってもう...。

そういった愚かな意識が、かつて一度祟ったことがあった。
仕事から一時開放された昼休み。
ふとした出来心から、おざなりに取り置きしてあった荷物の箱をひとつ開封して見てみる。
その中でひときわ目についたのは、気味が悪いうさぎのぬいぐるみだ。
他にも、前に言っていた約束の書かれた数学のノート、買ってあげた飾り物など、結野が捨てたはずの私物と、少しばかり整理した俺の私物までもが混ざって入っている。
なぜ職場の物置の中(ここ)に?
これは、やはり前にも自白していた東條の妹の仕業だろうか。
それにしたってな...。
箱の裏に書き置きが貼ってある。
そこには、
「思い出、もう捨てちゃだめだよ。ちゃんと姉ちゃんを幸せにしてあげてね。」
と。
...よりにもよって、ヒガシと東條の共同正犯だとは。
開いた口が塞がらない。
これも粋な計らい...だとは認めたくないところだが、
会社までわざわざこの荷物を移動させてきた彼らの努力は、先の自分勝手な意識に杭をさすこととなった。
そうだ。
今まで自分がおかしてきた過ちを一生をかけて償わなければ。
結野を、今度こそ幸せにしてみせる。
例え、結野との間に子どもが残せなくても。
病気持ちでも。
弱くて情けなくても。
俺にできることはなんでもしてあげたい。
結野をいっぱい、愛してあげたい。
精一杯に、愛して。
幸せな家庭を築いていきたい。
それがかつての夢でもあったことを殊更に思い出したから。
それでも、先にプロポーズされてしまったりなんかして
まだまだしくじりからくる後悔は止まないわけだけど。

これからも、末永くよろしく。
ゆいの。