透明な海



手を洗っていきなと言われて上がった家で、ななは「これあげる」と五つ入りのあんパンの袋を差し出した。

躊躇いがちに十織がそれを受け取ると、彼女は「お礼」と笑みを見せる。

「一個ね。その中の」

「ああ、それなら」

納得だ、とは声を飲み込んだ。モデルのようにすらりとした体型からは想像しがたいほどに甘いものを愛すななが、これほどの礼を差し出すとは思えなかった。

「なな殿の奮発お礼。おたく黒字だね」

「そうだね」と苦笑し、開けていいよと言う彼女の声に従ってパンを開封した。

「いただきます」と一つ取り出し、「わたしも食べる」と言うななへ袋を返す。

「いやあ、おかげでもうお父さんから苔剥がしの命令が下ることはないよ。ありがとう」

ななは一口であんパンの半分ほどを収めた。

「それはいいんだけど、あの剥がした苔、どうするの?」

「いや、別になにかするつもりはないけど?」

「繁殖するよ、あれ。たぶん」

「……え?」

「苔って、増えていくから」

「え、あれだけ根こそぎ剥がせば、そのうち枯れるんじゃないの?」

「苔って、枯れないみたいだよ」

「……え?」

「苔。あれって、枯れないみたいだよ」

「ううん、二回言ってほしいんじゃなくて。枯れないの、あれ?」

「そんな情報を見た気がする」

「えっじゃあ、あれあのまんま放置してたら……」

「場所が移動するだけでまた増える――かと」

「え?」

「え?」

「……本気?」

「たぶん」

「あいつ、日当たり良好な場所好むんでしょ? 湿気むしむしの暗がりに置いておけば、どうにかなるんじゃないの?」

「……さあ、どうなんだろう」

「まじで? えっ、どうしよう。お引越しした先で家族増えてたら」

「まあ、そのときにはまた呼んでくれれば。手伝うから」

「いや、そういうことじゃないし。きりないじゃん」

「……そうだね」

「えっ、どうすりゃいいの? あれ」

「……どうすればいんだろう」

「……知らないの、十織」

「おあいにく」

「ええ……」

どうしようと苦笑するななに同じように笑い返し、少し気になる静寂の中、十織は小さくパンをかじった。