「下谷」
男の声が言った。数学担当の男性教師だ。
がたいがよく、ぱっと見た感じで、身長は百八十二センチメートル、体重は八十三キログラムといったところだと十織は予想している。
「はい」
「この問題解け」
「はい」
教室の静寂を、十織の声が数式で揺らす。
やがて「九分の三」と彼の声が締めくくると、男性教師はよしと短く声を発し、言葉を並べながら黒板の中の白を増やした。
殴り書きのように力強く文字が並ぶ途中、チョークのかけらのような粉が二度落ちた。
隣から小さな笑い声が聞こえ、目をやれば「すごいね」と女子生徒は言う。
「そんなことないよ」と返しながら、複雑な思いがお香の煙のように胸中を巡る。
中学校を卒業すれば、自分自身からも卒業できるのだと思っていた。自分が置かれている状況すべてから卒業するのだと思っていた。
しかしそうではなかった。中学校までも高校も、「学生」の肩書を持つ十織に大きな変化はもたらさなかった。
前の席の男子生徒ががくんと項垂れるように首を動かし、ゆっくりと顔を上げて後頭部を掻いた。
廊下側の一番前の生徒二人は、密かになにか短く言葉を交わした。
十織は窓の外へ視線を投げた。
黒板を眺めていたり、ノートに筆記用具を走らせていたり、教科書にマーキングしていたり、頬杖をついて筆記用具を回していたりするいくつかの横顔の向こうで、澄んだ春の空に小さな白が浮かんでいる。
懐かしいな、と思う。小学生の頃、なぜ日中の空が青く、夕刻の空が赤やオレンジ色に見えるのかと考え、何時間も思考を巡らせたことを思い出した。
それが今では、レイリー散乱の一言で片を付けられる。
幼稚園に通っていた頃、年上の女子に「お空の雲はわたあめなんだよ」と言われてその可能性を感じたことも懐かしい。



