透明な海



立って漕いでいたペダルをそのまま止め、緩やかな下り坂を、緩やかにハンドルを切りながら下った。

涙目で鼻をすするななは、自宅の前で棒のついた飴を咥えていた。

十織はブレーキを握り、片足を地面に着けた。

ななは棒を手に持ち、光沢を得た飴を取り出す。

「十織……」

遅いよと言って、ずるずると鼻をすする。

「怖かった……」

「ごめんね。それで、虫はどこに?」

「わたしの部屋。すっごいおっきいの。真っ黒で――」

こんな、と言ってななは人差し指と親指の間隔を広げる。

おっと、と十織は腹の中に声をこぼした。それだけ大きければななは半泣きにもなるなと、密かに納得する。

「黒いというと――」

「嫌だ」とななは十織の言葉を遮った。

「それ以上言ったら頭突きするから」

「物騒だな」

言わない言わない、と十織は手を小さく振る。

「部屋の扉は? 閉めてきた?」

「閉めた。すぐ閉めた」

「すごい。どこにいた?」

「カーテンにくっついてた。寿命縮んだもん」

「そうか。じゃあこのあと、カフェオレ淹れてあげるよ」

「本当?」ななは涙とは違う輝きを宿した目で十織を見上げた。

「うん」

十織は「じゃあ行ってくるね」と自転車を降り、スタンドを下げて「お邪魔します」と幼馴染の家の敷地に入った。

「早く行ってきて」という彼女の声を背中に聞く。


空箱の階段を上り、右手の扉を開ける。白と茶色を基調とした六畳の空間は、前回入ったときと少しものの配置が変わっていた。

十織はすぐに扉を閉め、部屋を見渡した。

白のテーブルに駄菓子が入った透明な容器が置いてある。淡い黄色の花形の容器には、なながよく食べている棒についた飴が刺さっている。いつか彼女が、自作したのだと嬉しそうに語っていたのを覚えている。

扉の正面の小窓の前には茶色のローテーブルがあり、上に小さなくまのぬいぐるみが二つ、左端(さたん)右端(うたん)に向かい合うように置いてある。

部屋の右側には壁に沿って棚があり、白地に小花柄が描かれたカーテンがつけてある。

部屋の左側には窓があり、棚についているのと同じ柄のカーテンが閉まっている。

再度右側へ視線をやると、小さく心臓が跳ねた。

こりゃあ大きいねと、十織は腹の中に苦笑する。

ティッシュちょうだいするよと密かにななへ告げながら、彼はゆっくりと、木製のカバーに収められたボックスからティッシュを数枚引き抜いた。

動かないでねと繰り返し心中に唱えながらそっと距離を縮め、さっと手で包んだ。

「よしよし……」

小窓を開けて外へ投げるようにすると、手の中の黒は大きな羽音とともに飛び立った。

十織はふうと息をつき、ティッシュを畳んでブレザーのポケットに収めた。

小窓を閉め、そのまま部屋を出た。