透明な海



「下谷」の表札を抱える敷地に、少し土のついた靴が踏み入る。


十織が生きていることを愛すようになったのは、母の教えが大きく影響している。


彼女は自身がいくつかの悩みを抱えていた中学生の頃に、一番の相談相手だった母親を亡くしているという。父親もいたが、当時は特に仕事が忙しく会話も少なかったらしい。

母親の死後は父親と過ごし、以前まで仕事を優先していた彼も娘に尽くすようになったという。

母は「死別」を経験して「生」のありがたみを学んだと語った。ありふれた話だけどねと苦笑もしていた。


十織はそれを知る前から、彼女に生きていることは尊いことなのだと教えられてきた。

どんな時間であってもやがて終わりが訪れる。それに抗う術はない。しかしそれは至極自然なことであって、わざわざ恐れる必要はない。すべきは生きているその瞬間に幸福を見出すこと――。