彼女は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いて視線を逸らす。
最後くらい笑って別れたいのは、俺のエゴだろうか。
「では、また明日…お迎えに上がりますね」
返事も聞かぬまま、一歩、足を踏み出した。
きっと、今日も眠れない。
明日も、明後日も、その次も。
眠れない夜が続くだろう。
目を閉じて浮かぶのは、俺以外の男の隣で笑う彼女の姿。
俺はこの先、一番近くでそれを見るのか。
いいんだ。
それでも、俺は。
お嬢様。
貴方が幸せだと笑うなら。
それだけでーー………
「待って…っ!」
背中に感じる、柔らかな感触。
呼吸が止まった。
彼女に背中から抱きしめられていると理解したのは、声が聞こえた数秒後だった。
必死に伸ばされた腕が、ぐっとメルを抱きしめ、ぎこちなくシャツを掴むその指は微かに震えている。
「帰らないで」
目を見開くと同時に、彼女の泣き出しそうな声が耳に届く。
「今夜はずっと、私の側にいて…!」



