土曜日の朝は、喧騒も平日とは少し違う。
普段は出て行く車が動かず、ファミリーカーがいそいそと出発して行った。
ランドセルの音も革靴の音もしない。
私の足元でもヒールではなく、サンダルのゴム底が擦れる音がしていた。
その中で、川奈さんの家のチャイムは、いつもと変わらないのんびりしたものに聞こえる。
予想通りすぐには反応がなかったので、少し待ってもう一度押した。
やはり出てこない。
ドアに近づいて中の音に耳を澄ませたけれど、どこかの犬の鳴き声の方が大きいくらいに、室内は静かだった。
まだ寝ているんだったら、起こした方がいいかな、と思ってチャイムを連打していると、
「おはよう。チャイム壊れるよ」
と階段の方から川奈さんがやってきた。
くたくたのTシャツは変わらないけれど、下はジャージのハーフパンツを穿いている。
「もしかして……ランニング?」
川奈さんはタオルで顔を隠すようにして、汗を拭う。
「うん。まあ」
「前にベランダから川奈さんみたいな人が見えたけど、走ってたから別人だと思ってた」
「それ、多分俺」
将棋は体力勝負と言われている。
タイトル戦を除くと、一番持ち時間が長いのは順位戦(名人への挑戦権を争う)で一人六時間。
将棋は読みの精度が重要だけど、疲れてくると当然それは落ちる。
体力をつけ、疲れにくい身体を作っておくことは、勝つために大切なことなのだ。
「なんで急に」
「それはもちろん勝ちたいからだよ」
返ってきたのはシンプルで強い言葉だった。
「それから、太っちゃうと正座がきつくなるからね」
川奈さんの笑顔は、私の手元に向いていた。
「ごめんなさい。考えが足りなくて」
紙袋をグシャッと抱いて、急ぎ足で川奈さんの横を通り過ぎようとすると、
「ああ、ごめん! そういう意味じゃない!」
と腕を掴まれる。
すぐそばに川奈さんの真剣な目があった。
対局の日の目だな、と思った。
いつもならくるくる光を変える目の色が、しずかに凪いでいる。
何も言えず、ただその視線に囚われていたら、私の腕を掴んでいた手がほどかれて紙袋を抜き取った。
「いただきます」
しわしわになった袋を顔に近づけて「いい匂い」と微笑む。