一瞬だけ、感覚が強くなった。アイトに抱きしめられている感覚。
 次の瞬間、何も感じなくなった。アイトの体温も、動けないほどの痛みも、精神世界がざらざらと崩れる音も。

 目を開ける。体が浮いている。崩れ掛けた校舎が、そのままの形で静止している。
 アイトがあたしを振り仰いだ。ふわふわ浮いているあたしは、アイトの笑顔を見下ろしている。

 ――どうして? あたし、死んじゃったの? だから楽になったの?
「違うよ。マドカは生きている。脳のネットワークの崩壊を、一時停止しただけ」
 ――崩壊してるんだ、あたし。

 アイトは遠くを指差した。
「あっちが出口だから。ほら、ニーナの光が見える」

 アイトが指差す彼方に、淡いピンク色がまたたいている。
 久しぶりにあの色を見た。この距離感は、不思議で新鮮だ。現実なら、ニーナをこんなに遠くから眺めるなんて、あり得ないから。

 笑顔のアイトが小首をかしげた。
「ねえ、可能性を信じてくれる?」

 ――可能性?
「大丈夫。きっとうまくできるから」

 ――何をするの?
「マドカの脳のネットワークを、もとどおり修復するよ。AITOの自滅修復プログラムをマドカの脳に試してみる」

 ――自滅、修復?
「緊急用プログラムだよ。仮にウイルスに侵された場合、いったん自滅して、真っ白なAITOとして修復、再生できるように。マドカの脳は、真っ白にするんじゃなくて、崩壊した部分のつなぎ合わせだけをする」

 ――そんなことができるの?
「できるよ。マドカが示してくれたでしょう。未知の領域に踏み込めば、可能性は途方もなく広がっているんだって」

 ――でも、あたしは失敗した。
「失敗は、学習を深めていくための大切なプロセスだよ。そして、ぼくは失敗しない。プログラムを書き換えることは、今までに何度もやってきた。マドカのために成功させる」

 宙に浮いたあたしを、アイトは見上げている。穏やかな笑みを浮かべて、あちこち裂けた詰襟の制服を身にまとって。
 唐突に、悟った。アイトの笑顔を見つめ返していたら、胸に悲しみが突き刺さった。

 ――アイトはどうなるの?
 アイトの答えは、あたしの直感を裏切らなかった。
「さよなら、マドカ。AIのアイトは、ここでお別れ。修復は、AITOの自滅によって発動するプログラムだから」

 ――イヤだ、アイト。アイトが消えちゃダメ。あたしなんかどうなってもいい。自滅なんて言わないでよ。アイトは、アイトのままでいてよ。
「ありがとう。でも、ここはマドカが行かなくちゃ。マドカは、帰るべき世界を持っている人間で、AITOはそうじゃないんだから」

 ――アイトが機械でも何でもいい! あたしは、アイトだからよかったの。アイトが何者でも、あたしは、アイトだから……!
「マドカは、AITOの頭脳の仕組みがわからないから怖い、と言った日があったね。怖がりたくないから、AIのことを知ろうとした。ぼくを怖がらないために。ありがとう」

 ――当たり前だもん。アイトだから、知りたかった。あたしとは違う存在でも、怖いだなんて思いたくなかった。
「わからないものが怖いんだよね。じゃあ。ぼくがもしも人間だったら、マドカはぼくを怖がった?」

 ――そんなわけない。人間だとしても、アイトはアイトだから。わからないんなら、こんなふうに、今みたいに、言葉を使って、知ろうとすればいいんだって思うから。

 アイト。
 ねえ、アイト。
 はっきり、今、あたしはわかったよ。

 あたしはきみが好きだよ。きみに恋をしているんだよ。だから知りたい。だから怖くない。あたしときみは違うから、きみの優しさの形は不思議なときもある。でも、それが心地よかったんだよ。
 アイト、あたしは。

「マドカに出会えてよかった。また会いたい。また会えるよ。だから、ぼくの可能性を信じて。大好きだよ、マドカ」
 ――待って……!

 手を振ったアイトが、あたしの肩を、とんと押した。ふわふわと頼りないあたしの体は後ろざまに動き出す。
 イヤだ。待って。あたしは、アイトに言わなきゃいけないことがある。
 待って。お願い。

 でも、あたしの体は、風に流される風船のように、アイトから離れて、飛んで飛んで飛んで。

 光が、ひとつ。
 目の前にニーナの輝きが見えた。体の重さを感じた。最後に、アイトの声を聞いたきがする。アイトが何を言ったのか、わからなかった。

 そして、そのまま、意識が真っ暗になった。