あたしはしばらく、ぼーっとしていたらしい。

「マドカちゃん? ねえ、大丈夫?」
 ユキさんに顔をのぞき込まれて、はっと現実に降りてきた。土曜日、午後五時、雑貨屋コーラル・レインの隅。手には、埃を払うためのハタキ。

「すみません。何か、頭が働いてなかったみたいで」
「今日、体調がよくないんじゃない? 朝から顔色が悪いよ」
「ちょっと寝てないだけです」

 ユキさんの手の中に、くすんだ色のニーナがいる。床に落ちたのを拾ってくれたんだと思う。ユキさんの妖精、白いマァナは、ニーナのそばに身を寄せている。
 寝ていないのは本当のことだ。
 あたしは計算室に閉じこもって、アイトの部屋にログインしたまま、ほとんどずっと起きている。ドアには南京錠を付けて、内側から閉じた。

「マドカちゃん、学校のことで問題があったりするのかな? 人間関係とか、いろいろ。もし力になれることがあるなら、わたしでよければ話して」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。学校は別に問題ないので」
「でも」
「あ、問題しかない学校生活だけど、実害があるわけじゃないし、大丈夫です」

 今さら、あたしを絶望させるような問題が、新たに起きるはずもない。だって、学校に行っていないんだから。
 最初からこうすればよかったんだ。あんな学校に、意地を張って毎日行く必要なんか、まったくなかった。

 ユキさんが、ちょっと無理するみたいに微笑んだ。
「今日はもうすぐ店じまいだから、マドカちゃんには早めに上がってもらおうかな。もちろん、そのぶんをお給料から引いたりしないし」

「ダメですよ。お給料とか、ちゃんとするところはしなきゃ」
「ううん。マドカちゃんはいつも、わたしが求めてる以上に丁寧に働いてくれて、少ししかお給料をあげられないのが申し訳ないくらいだもの」

「そんなことないですって。妖精持ちのあたしをバイトで雇ってもらえるだけでも、ありがたいし」
「そう言ってもらえるなら、わたしもありがたいな。マドカちゃんに声を掛けてよかった。でも、今日は素直に聞いてもらえる? 早く帰って、体を休めて」
「……はい。ありがとうございます」

 ユキさんは、にっこりしてうなずいた。
 あたしより十歳も年上なのに、とても可憐な人。マァナの純白みたいに、少しも汚れていない人。苦しい思いもたくさんしてきたはずなのに、どうして染まらず、濁らずにいられるんだろう?
 息苦しくなって、あたしはさりげなくユキさんから目をそらした。そうしないと、ユキさんに全部、見抜かれてしまいそうだ。

 店の表のドアが、カランとベルを鳴らした。お客さんじゃなかった。ナサニエルさんが帰ってきたんだ。今日は研究関係のイベントがあって、朝から大学に出掛けていたらしい。

「Oh、静かだな。お客、少なかったのか?」
「ナサニエル、おかえり。今日はこんな感じだったよ。マドカちゃんも疲れてるみたいだし、早めに帰ってもらっても大丈夫そうって言ってたところ」
「マドカ、調子悪いのか?」
「平気です」

 でも、そうは言ってみるものの、そんなの嘘だって、すぐにバレてしまった。
 ニーナはくすんだ色をして、ユキさんの手の中から浮かび上がることができない。変だな。よっぽど熱が高いときじゃないと、ここまでぐったりすることはないのに。

「つらそうだな。マドカ、立っていられるか? すぐに帰る支度をしろ。おれが車で送ってやる」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「だけど」

「一人で大丈夫ですから。レジ閉めたり一週間ぶんの在庫をデータ化したり、こまごましたことをやり残してるので、お願いします」
「ああ、わかった。それはおれがやる。久しぶりだな、その仕事。もともとおれがやってたのに、最近はマドカに任せっきりだから。マドカのほうが、おれより仕事が速いもんな」

 だって、ナサニエルさんには言葉の壁がある。日常会話は完璧だし、大学で専攻する社会学の用語も網羅できているらしいけど、コンピュータの集計ソフトで使われる言葉はまた全然違う。
 集計ソフトに限らずコンピュータ全般で、ちょっと特殊な日本語が使われる。あたしは気に留めたこともなかったけど、ユキさんもナサニエルさんも意外と手こずっている。

「デジタル・ネイティヴ、か」
 特技と言うには弱いけど、あたしが人より得意なことって、勘で機械を操作することだ。
 コンピュータが思いどおりに動かなくても、あたしはコンピュータを罵ったりしない。どうすればいいかのアイディアが、すぐに浮かぶ。たぶん、あたしはコンピュータと対話ができる。

「マドカ、本当に大丈夫か? 一人で帰れる?」
 ナサニエルさんにしつこいくらい心配されたけど、あたしは大丈夫だと言い張って、早々に退散した。

 本当は、車で送ってもらえたらありがたいくらい、体がだるかった。でも、父の研究室に忍び込んだことを話題にされたら、しどろもどろになってしまう。触れられたくない話題だった。

 あたしは、木枯らしが吹き始めた町を、足早に歩いた。土曜日だけど、両親は仕事に行ったはずだ。さっさと帰り着いて、邪魔されないうちに、早くアイトに会いたい。