* * *
「誰だ?」
駆け出す足音に、花野井は廊下を覘いた。
しかしそこには、暗闇が佇んでいるだけで、誰の姿もなかった。
花野井は怪訝に首を傾げた。
彼の耳が聞き取れないくらい気配や音を消して近づけるのは、岐附では本気を出した月鵬くらいなものだったが、こんな夜分に月鵬がいるはずもない。
戸口から覗いていた花野井の袖が、微かに揺れるのを感じて、彼は振り返った。
鈴音が憂い気な瞳で、小さく袖を引いていた。唇を噤んで、花野井に擦り寄る。花野井は僅かに眉を顰めて、そっとそれをかわした。
かわされた鈴音は、顔を僅かに歪める。
「本当に、どうしたんだよ。変だぞお前」
「どうしたって、なんです?」
「元々お互い遊びって事だったろ。最初からそういう話だったじゃねえか。お前が言ったんだぜ? それに、こういう事する女じゃなかったろ」
「こういう事って?」
嫉妬ってことですか? 続く言葉を、鈴音はわざと声に出さなかった。問われた花野井は、困ったように眉根を寄せる。
鈴音は花野井がそういう反応をする事が分かっていた。
ずるい男――心の中で呟いて、
「あの子ですか?」
押し殺すように言った。
「なんの話だ」
花野井は、鈴音が誰を指したのか気づいたが、訝しがったふりをした。
そんな彼に、鈴音は嘲るような笑みを向けた。
「まさか、誰にも本気になられなかったのに、あんな子供に」
「バカはよせ。彩にも言われたが、そんなわけねえだろ」
捨てるように言って、花野井は台所を出た。
その背を食い入るように見つめる鈴音の瞳には、赤々しい執着のような炎が燈っていた。
「ここで、ここまできて、捨てられるわけにはいかないのよ。冗談じゃないわ」



