その日の帰り、私は、いつものように宮原書店に寄る。

店内に入ると、あの作家の追悼特設コーナーに彼を見つけた。

ずっと探していたのに、いざとなるとなかなか一歩が踏み出せない。

なんて声を掛ければいいんだろう。

その時、平積みの本を整理していた彼が顔を上げ、こちらを見た。

その瞬間、彼は優しく微笑んでこちらに足を向けて歩いてくる。

どうしよう。
逃げ出したい。
でも、ハンカチを返さなきゃ。
でも……

私はどうしていいか分からなくて、彼から目を逸らしておどおどと挙動不審な動きをしてしまう。

私、今、絶対変だ。

どうしていいか分からないけど、自分が変だということだけは分かる。

私が戸惑って困っていると、すぐ目の前に彼がやってきた。

「こんにちは。」

彼が挨拶をする。

「こ、こんにちは。」

思わず吃った挨拶のせいか、頭上でくすっと笑った声がした。

笑われた!

恥ずかしくなった私は、そのまま逃げようとした……のに、次の瞬間、左手首を掴まれていた。

「お願いだから、逃げないで。」

彼の柔らかな声が頭上から聞こえる。

男性に手首を掴まれたことなんて初めてで、手首から全身に熱が伝わり、顔が熱くて仕方がない。

「あの… 離して… ください。」

私が一生懸命発した言葉は、蚊の鳴くような声にしかならなかった。

「あなたが逃げないと約束してくれるなら。」

あくまで彼の声は優しいけれど、有無を言わせぬ意思の強さがあった。

「はい… あの… 逃げません… から…
その… 」

私の返事を聞いて、彼はそっと手を離してくれた。

「そこの喫茶スペースで話がしたいんだけど、
時間はある?」

彼にそう言われて、私は頷くことしかできなかった。