頬に冷たいものが当たっている。望む望まざるに関わらず、意識の水面に向かっていく。天国なのか、地獄なのか、死に損ねたのかも掴めないまま、私は瞼を持ち上げた。

「ぁ……」

掌に砂利石がささっているのがわかる。頬に当たっているのは線路だった。ゆっくりと身体を起こす。痛みはないし血すら見えない。切り忘れている前髪が視界にかかる。ああ、死に損ねた。電車を止めて学校に遅刻して、最悪だ。居合わせた人達はきっと私を恨んでいることだろう。ふとホームを振り返ると、私の隣に並んでいたスーツのおじさんがあんぐりした表情のまま、

……文字通り固まっていた。

スマホを触っている男の人、経済新聞を読むキャリアウーマン、風が吹いてもそのスカートすらなびかない。戸惑って踏切の方を見やると、私を轢き殺していたはずの快速電車が、駅に入るすんでのところで止まっていた。理解が追いつかない私が立ち尽くしていると、快速電車から黒いもやのようなものが漂いはじめた。もやは濃度を上げて影の塊のようになると、私の方へぬるぬると伸びてくる。

「ひ、あ、」

影に舐められた雑草が煙をあげて一瞬で灰になる。足がすくんで動けない。さっきまで死にたがっていたくせに、本能が逃げなければいけない、と叫び続けている。あれに呑まれたら、どうなるんだろう。

「すまねえ!」
「きゃ!?」

私は突然後ろから抱え上げられた。迫り来る影を振り切ってなめらかに加速していく。おそるおそる見上げると、自分と同い年くらいの少年が精悍な顔つきで前を見据えていた。真っ直ぐな黒茶の髪は、太めの眉にかからない程度に切りそろえられている。日に焦げた肌には一滴の汗も浮かんでいない。私の視線に気づいたのか、彼は私の顔を覗き込む。

「ごめん、ビックリさせたよな」

通った鼻筋、幼さを残した真っ直ぐな瞳。制汗剤みたいなシトラスの匂いがする。彼は少し彫りの深い整った顔をくしゃっとして笑った。ああ、男女関わらず人気で、クラスの中心にいそうなタイプ。コミュ障でほとんど同級生と喋ったことがない――ましてや、異性となんて関わったこともなかった私は、感謝の言葉すら出せずに脂汗をかいていた。

「あとは俺に掴まってりゃ、大丈夫だから!」

再び前を向いた彼は大きく踏み込むと、私を抱えたままホームの屋根に飛び乗った。見とれてばかりいた私は、ようやく彼が常人ではないことに気がつく。

「ま、待って……、これ、あの、あ……どういう、こと、ですか」

必死の思いで押し出した声はか細く震えていた。ん、と短く応えると、彼は屋根の上にそっと私を座らせて向かい合うようにしゃがんだ。

「すまねえけど、話したら長くなりそうだから……ちょっと待っててもらっていい?」

くしゃっとした屈託のない笑顔とは対照的に、私の頭をぽんぽんと触る手は関節が太く、腕にかけてあざだらけだった。

「あ、あの、あなたは……」
「あー、俺?……こんなこと言ったって訳わかんねえと思うけど、」

長いまつげを伏せて照れくさそうにすると、彼は勢いよく立ち上がり背を向けた。

「『ヒーロー』、だよ」

振り返って得意げに笑ってから、彼は影の渦巻く線路へと飛び降りていった。