恋の始まりというものは相手のことを四六時中考え、自分の体がここにあることなんて忘れてしまうくらいうきうきするものだけれど、恋の終わりはわたしの体がここにあることをはっきりと教えてくれる。


 やけに自分自身の体の隅々にちょっとした異常が現れて、特にそれは静かな夜になると急激に気になりだすものだから、ゆっくり寝れやしない。

 たとえば、遠足のリュックを忘れた小学生のような右手の薬指だとか、無意識のうちに注意深く遠くからやってくる夜の音を聞きとろうとしている両耳だとか、足の怪我のせいで泣く泣く踊ることに終止符を打ったバレリーナのような左胸だとか。

 そういう体を、あの人は平気でわたしに与えた。




――今夜は、透明で、ぬるいな。




 春だった。

 二人で夜の公園を散歩していた時、あの人が言った。

 講義が終わったら夜桜を見よう、とわたしが言い出したのだ。

 その間ずっと、さも普段より高いヒールのせいで足元がふらついているかのようなふりをして、あの人の左腕に寄りかかっていた。

 透明で、ぬるい夜って何のことだろうと、あの人の視線の先を追いかける。

 そこにあったのはわたしたちが目指していた大きな桜の木だった。

 満開を少し過ぎている。遅めの桜見物になってしまったらしい。

 薄紅色のはずの花弁たちは、ライトアップの光に煽られてその色をほとんど失くし、透明になっていた。

 信じられないことに、桜の木の下に立つと花弁越しに遥か頭上にある三日月が透けて見えた。

 その黄金の光は、冬の鋭さをとっくの昔に捨てていたようで、わたしたちをほんのりと照らし出していた。

――ほんとう。透明で、ぬるい。

 ぬるい夜、の意味も、分かる気がした。

 冷え切っているわけでもなく、汗ばむ気候でもなく。



 それはあのころのわたしたちの関係にも似ていた。



 ぬるい風が吹き、花弁が一枚、二枚……と光の筋の中に舞う。

 あの人と組んでいた腕を離し、代わりにあの人の正面に立つ。

 そしてあの人の両腕を、薬指にリングの嵌った右手と、そうでない左手で捕え、唇をねだる。

 今思えば、あのぬるさが終わりの始まりだったのだ。

――俺は、天使だからな。天使と人間はキスできない。

 ぬるい冗談でかわす彼の心はすでにわたしではないどこかへと向いていた。



 窓から夜を眺める。

 わたしの体がわたしのもとに確かにあること。

 それを今夜もまざまざと感じさせる、透明でぬるい風が窓から吹き込んでくる。

 でもこのわたしの体の重みを、わたし以外の誰が引き受けられるのだろう。

 それはわたし以外の誰にもできない、たいせつな仕事なのだ。


 わたしはそっと窓を閉める。透明でぬるい春の夜と、わたしの世界を仕切る窓硝子に映るのは、紛れもなくわたしの体だ。

 その体の輪郭を目で追う。

 もう寝ようとカーテンを閉めると、サイドテーブルに置いた携帯が鳴りだした。

 わたしはディスプレイに示された名前を確かめ、一呼吸おいてから何もつけられていない右手を伸ばす。



 忘れ物をした小学生が家に引き戻す。

 夜の音は電話越しの声によって遮られる。

 踊りを辞めたバレリーナが、再起をかけて立ち上がる。



 夜明けはずいぶんと、近くなっていたのだ。