次の日。

突然、バラバラと足音が聞こえてきたので驚いて廊下の向こうを見ると、金髪の男性と大柄な女性が歩いてくるのが見えた。

「ノエリア!」

幻覚を見ているのかと思った。こちらへ手を振りながら歩いてくるのはヴィリヨ。ノエリアの兄でヒルヴェラ伯爵である。

「お兄さま! マリエ!」

「お嬢様あ~! お元気でしたか」

マリエはヒルヴェラの屋敷でずっと一緒に暮らした侍女で四十台後半の快活な女性である。

「シエル様がひとを呼び寄せたと言っていたの。お兄様のことだったの!」

ノエリアは両手を広げた兄に飛ぶようにして抱き着いた。
幻の薬草ミラコフィオ群生地の管理栽培で名誉と領地回復をし、細々と続けていた事業拡大も含め朽ちていた加工場の整備など大忙しのヴィリヨ。生まれつき虚弱のためにシエルの計らいで転地療養をして数カ月、だいぶ体力も付き元気になったのだ。

もう顔色を見て体調を心配することもなくなったと手紙に書いてあったことを思い出す。少し太り、握った手は力強かった。

「作業の進捗を見るために一時ヒルヴェラの屋敷に戻っていたんだ。陛下から手紙と迎えが来たのでね。緊急事態で驚いたが拒む理由などないし協力したい。なにより大事な妹のそばにいてやりたいからね」

「お兄様、ありがとう」

ひとを呼んであるなど、どこぞの有力貴族だと思っていたら自分の兄だったとは。これは多大なる安心だ。

「薬と食料を持ってきたんだ。万が一最悪の事態が起これば、ここが戦場となることもありうると思って」

ノエリアは思わずふっと笑う。

「兄妹ですね。わたしも同じ考えだったのです」

ヴィリヨをサロンへ招き入れ、彼を呼び寄せたのはシエルであることも伝えて皆に紹介した。物資を運んできたことをヴィリヨが皆に伝えると喜びの声が上り、搬入のために男たちがサロンを出て行った。

「ここを待機所にしたんです。広くて皆に分かりやすいと思って。食料と薬などを確認して準備し、お兄様と同じように最悪の事態に備えようと」

「そうか。俺ももちろんできる限り手伝うよ。持ってきた物資はじゅうぶんな量ではないかもしれないから、ノエリアが手配するつもりのものはそのまま進行させて」

「分かりました」

老側近と王宮執事にも挨拶をしたヴィリヨはノエリアが整えた組織図や情報リストを眺めて唸った。

「王都の店に立ち寄ったら聞かれたのだが、どうやら貴族たちを通じて王都やその付近の村にもソラゾのことが知られて始めているようだ」

「混乱を招かないといいのですが」

ヴィリヨは頷いたが、不安そうな人々を向こうに映すようだった。

「国王陛下たちが守ってくれる、皆そう言っていたよ」

その場にいた皆が頷いた。

(彼らの勝利を願い、できることをして待つしかない)

ヴィリヨがノエリアの肩をさすってくれる。沈黙が広がるがそれぞれが小さな決意をしているような時間だった。

いま北側国境ではどのような状況なのか。情報がなにも入らず不安な日々が続く。

不安は恐怖を呼び恐怖は精神を疲弊させる。王宮から笑顔が消えていく。
最初のうちはにこやかにしていた者たちが、得体の知れない暗闇に包まれていくように。
剣を構え、馬を駆り戦地に赴くことができればいいのに。できないからこそもどかしく不安で仕方のないノエリアだった。