以前にも似たような事を思った時があった。
どうして涙を流すと、満たされた気持ちになるのだろう。

乾いた地を雨が潤すように、ゆっくりとゆっくりと染み込んでいく。

そこには青空のような晴れ晴れしさは無いけれど、静やかな慈しみがある。

その慈雨は髪の毛一本一本にこびりついていた泥を洗い流し、やがて顔を出した金の色を、確かに垣間見た。


(このままで居たいと、本当はいつも思うの)







翌朝、カヤは普段よりも少し早起きをした。

最近は太陽が昇るのも遅くなってきた。まだ辺りは薄暗い。

冷たい早朝の空気に身震いをしながら、少しだけ白んできた東の空を横目に、カヤは翠の部屋へと向かった。

少しだけ部屋を覗いてみて、まだ眠っているようだったら出直そうと考えながら。


ほとんど人の居ない屋敷の廊下を静かに歩き、やがて次の角を曲がれば翠の部屋と言うところで―――――

「……ん?」

思わず足を止めた。

ぼそぼそと人の話し声が聞こえたのだ。
翠とタケルだろうか。もう起きているとは驚きだ。

こっそりと廊下の角から声のする方を窺ってみたカヤは、次の瞬間に息を呑んだ。

部屋の入口前で向かい合って立っているのは、翠と伊万里だったのだ。



「――――……本当にもう大丈夫か?」

静かな空気を伝って、翠のそんな声が聴こえてきた。
その声も表情も、酷く気遣わし気だった。

「はい。このようなお時間までありがとうございました」

こちらからは伊万里の表情は見えない。
しかし、声だけははっきりと聞こえてきた。

(このような時間まで……?)

耳を疑う。
それはつまり、一晩中一緒に居たと言う事ではないか。

ぐらり、と足元がふらついた。

伊万里は、きっと世話役になったに違いない、と思った。

しかも一夜を過ごしたとなると、それはもう世話役としてではなく、男女として―――――

見事に思考が停止したカヤの目の前で、翠が伊万里の肩にポン、と手を置くのが見えた。

「……それでは桂に宜しく伝えてくれ」

「ええ。承知いたしました」

伊万里が深々と頭を下げ、そしてこちらに向かって歩いてくる。

呆然と突っ立っていたカヤは慌てて顔を引っ込めたが、足が震えて動けなかった。

(逃げ、なきゃ……)

このままでは鉢合わせてしてしまう。

ああ、でも、指先まで震えて、この場に崩れ落ちてしまいそうだった。

もたもたとしているうちにも、伊万里の足音は近づいてくる。

もう逃げるのは不可能だった。