――――ヒュオッ。
背筋を通り抜けた強い風に、カヤは息を呑んだ。

(……落ち着け、落ち着け)

カヤは、崖にしがみ付きながら、深呼吸を繰り返した。


カヤの部屋は、人工的に作られた砦とは真反対側の、崖側にあった。
入口からも一番遠い場所に位置している。

その部屋の窓から外に出たカヤは、崖の僅かな出っ張りだけを頼りに、ゆっくりと移動していた。

向かう先はただ一つ。弥依彦の私室だ。

(確か、あの部屋だったはず……)

カヤの視線の先には、宵の中、灯りが漏れている一つの窓があった。


幼い頃、ミズノエに教えてもらった事がある。

『あの窓、王様のお部屋なんだってさ』

そう言った彼の言葉に幼い自分は、"頑張れば崖を伝って入れそうだな"と感じた記憶があったのだ。

まさか十年程経った今頃、それを有言実行する羽目になるとは思っていなかったが。


――――ズルッ。
崖を掴んでいた手のひらが、汗で滑った。

「ひっ……」

慌てて岩肌にしがみ付く。
危うく心臓が止まりかけた。

かつての自分の部屋がどれだけ高い位置にあるのか、カヤは良く知っていた。

(下を見るな……見れば動けなくなる)

とは言いつつも、怖いもの見たさで足元を見たカヤは、ひうっと息を呑んだ。

遥か向うに固い地面が見え、くらりと意識が遠きかける。

このまま気を失ってしまえば、色んな意味で恐怖からは解放されるだろう。
でも、意地でも進まなければ。

じり、じり、と、しかし確実に歩を進める。

残念ながら悠長に移動しているわけにもいかなかった。
いつ砦の兵達に見つかるかも分からない。

ドクンッ、ドクンッ。
心臓は、まるで自分のものでは無いかのように暴れまわっていた。

(煩い、気が散る)

とは言え、極限の緊張感に襲われている心臓は収まらない。
それに耐えながら、カヤは歯を食いしばって進んだ。


そして、ようやく弥依彦の部屋の窓に辿り着いた頃――――カヤの全身は、冷や汗でびっしょり濡れていた。

「……はあ、はあ……」

激しく体を動かしたわけでも無いのに、とんでもなく息が上がっていた。

一刻も早く安定した地面の上に立ちたかったカヤは、そっと部屋の中に向かって耳を澄ませる。

ぐおぉぉ……と、低いいびきが聞こえてきた。

恐らく、弥依彦のものだろう。
それ以外、特に物音は聞こえない。

(弥依彦だけか……?)

そっ、と窓から中を覗き見る。
左側には大きな寝台があり、いびきはそこから聞こえてくる。

視線を巡らせるが、部屋の中には弥依彦以外、誰も居ないようだった。

それを確認したカヤは、出来るだけ音を立てずに、窓から部屋の中に入り込んだ。