「こ」

 北寺が何かを言おうとし、

「ここには、怖いものは、何もないよ」

 出てきたのはどこまでも優しい言葉だ。

 ――罵ってくれて、いいのに。
 じゃなきゃ、むしろ辛い。

 自分は、誰からも責められて当然のことをしたのだ。本当はここにこうして、のうのうと休んでいる場合ではないのだ。いち早くやらなければならないことばかりのはずなのだ。それなのに、それなのに、体が動かない。こんなの、責められてしかるべきだ。着替えることさえできない? 幼稚園児でも言わないようなこと、何を言っているの。私は一体どれだけ甘えているの。何分も、もしかしたら何時間も待たせたままで――優しく親切な、たった一人の恩人さえ、困らせ、落胆させることしかできないの。何も、何もできない、できないなんて……そんなの、いや。そんなのは、許されない。でも……。心の中が激しさを増すほどに、体は硬直していく。視界が曇る。理由もわからず涙があふれてきて、絶望と失望と悲しみに包まれていることを知る。

 ――私なんて、いなくなった方が、いいのかもしれない。

「大丈夫だよ」

 また、温かな声が聞こえる。

「ここは、誰からも責められることはないから。一つたりともないから。おれのことも負担なら、無視していい。俺が勝手にやってるだけだから。ここは、それでいい場所なんだ。着替えたくなかったら、着替えなくても、いい。明日、気が向いたらにしてもいいし、ずっと着替えなくてもいい。そういうことで、誰も傷つかない。ここは、何も押し付けられない場所なんだよ。おれはりっかの力になりたくて来た。でもりっかがそれを叶える必要はない。大丈夫、疲れてきたら、おれもどこかで休憩して、また来たくなったら来るだけだから。自分のことだけを考えて、自分のできることだけをやれば、それでいい。りっかが、今、ここに存在してくれているだけで、十分ありがたく思えているんだからね、おれは」

 甘い言葉だと、聞き流しているつもりだった。けれども温泉のようなそのぬくもりが、戸の隙間から流れ込んできて、凍えるような乾いた空間を満たしていく。その液体の中にじっとしていると、抱えていた氷が、少しずつ溶かされていくような気がした。

 律歌は一言だけ「じゃあ……もう少し、待って」そう言うと、首元のボタンに手をかけた。一つ、二つ、ボタンが外れていく。

 扉の向こうからは幾分安堵したような気配があった。

「うん、わかった。着替えが終わったら、おいで」

 小さくなっていく足音。その軽やかさに律歌はほっとした。寝間着を脱ぎ捨て、持っていた服に袖を通すことができた。ドアを開けて寝室の外、ひんやりとした廊下に出る。手つかずで髪はぼさぼさだし、泣きぬれて顔もくしゃくしゃなのはわかっていた。着替えるという最低限のことしかしていない。最低であることに変わりはない。容姿や愛嬌で甘く扱われたいという気持ちはないが、これでは人に何かプラスな感情を与えることなんてできないだろう。

 北寺のいるリビングのドアから漏れた光が、まぶしく見えた。足が止まる。裸足に床が冷たい。怖い。やっぱり、寝床に戻ろうか。