適当に相槌を打った俺の若干乱れたままの着衣、半開きの空き教室の扉を仁科が冷めた視線で辿る。
そして、すう、と目を細めた。
「佐和」
面と向かって名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
仁科は人の名前をめったに呼ばない。
「中途半端に近づかないでくれるかな」
誰に、は聞き返すまでもなく。
その腕の中で眠る、お姫様のことだろうとわかったけれど。
「は? なんでそんなことおまえに」
指図されなきゃなんねーの、と口にする前に。
「佐和には花乃は無理だよ」
「別に俺は、」
返そうとした言葉を遮って、仁科は俺の耳元に口を寄せて。
─────花乃のこと。
「傷つけたら、殺すよ?」
ぞっとするような低音で囁いて、ゆるりと口角を上げる。
人当たりの良さそうな笑みが不気味だった。
そして、あいつを抱えたまま何事もなかったかのように去っていく。
たんたん、と奴が階段を降りていく音を聞きながら。
「……物騒だな」
思ったままに独りごちた。
そういえば。
『ハルのことそれ以上悪く言ったら殺す』
たしかあいつもこの前同じようなことを言っていた。
『知ってる』
俺は、知らない。
まだ、全然知らないんだと、なぜか思い知らされたような気がした。
花乃自身のことも、
別れたはずの仁科との事情も。
あいつのこと、何もかも。
ふと、未練がましく仁科のことを慕っていた彼女の姿が思い浮かんで。
「面白くねーな」
雨音がやけにうるさく聞こえた。



