「……今まで、お世話になりました」

気がつくと、私の目からは涙がひとすじ零れていた。

それが輪郭を伝っておとがいまで滑り落ちたとき、クレメンス様は私からゆっくりと指を離した。

「住む所は好きにしたまえ。王宮内に行政官の宿舎もあるが、私邸が欲しいのなら私の別荘を貸してやろう。身の回りの世話をする人間と馬車もつけてやる」

そう言ってクレメンス様は踵を返すと、まるでいつもと変わらない様子で執務机に戻っていった。

それから机の上のベルを鳴らして、ゲンツさんを部屋に呼び出す。

「呼んだか? って、うわ! なんだこれ、花瓶が粉々じゃねえか! もったいねえな、どうしたんだ?」

部屋に入ってきたゲンツさんは床の惨状を見るとすぐさま窓際に駆け寄って、花瓶の欠片を拾い出した。そしてしゃがんで背を向けたまま「ツグミ、その辺の従僕呼んで来い」と私に命じる。

けれど私は唇を噛みしめると深々と一礼をしてから、無言のまま部屋から出ていった。

閉まった扉の向こうで、「ツグミ?」と呼びかけるゲンツさんの声が聞こえた気がする。

大声で泣きだしたくなるのをこらえようと、私は血が滲むほど唇を強く噛みしめ俯いたまま廊下を足早に歩いた。窓の外ではやまない雨が暗幕のように視界を闇に閉ざしていた。