「やっぱりうっまいなあ」

「あれだけ弾けたら、人生楽しいだろうね」

私のすぐ隣で、催事ホールのピアノを見下ろしながら男女が笑って聴いているので、つい話しかけていた。

「すみません。あのひと、ピアニストなんですか?」

男性の方が笑って左手をひらひら振った。

「違います、違います。ただの会社員ですよ、そこの楽器店の。だけどすっごくうまいから、たまにああして勝手に弾いてるんです」

お礼を言って、私は急いでエスカレーターを探す。
さっき上ったところまで戻って駆け下り、催事ホールまでさらに走ると、途中で筋肉が悲鳴をあげた。
耳に届く曲は非常に落ち着いて単調なものに変わる。
指の練習にも似たリズムなのに、吹き抜けのホールが光に満ちていくような荘厳さをたたえていて、モール内の空気さえ清浄になった気がした。
それなのにヒールのカツカツと鋭い音がピアノを邪魔してしまう。
10歳ほど年を重ねた秋吉想は、私の姿を見ると驚きのあまり弾く手を止めた。

「その曲、知ってる。『アヴェ・マリア』でしょ?」

息を整えながら言うと、彼は少し意地悪そうに笑う。

「正確に言うと違います。バッハの『平均律クラヴィーア第1巻第1番前奏曲』です」

「……今の、日本語?」

「将棋の解説だって、俺には呪文に聞こえます」

そう言って、ポケットの中の携帯を軽く叩く。

「……観てたの?」

「先輩が聞き手するときは、仕事中でも中継つけてるんです」

「仕事しなよ」

女流棋士になって、対局以外に将棋の指導やイベント出演、対局中継での聞き手など、仕事の幅はかなり広がった。
自身の将棋は、相変わらず鳴かず飛ばず。
タイトル戦に出られるわけでもない私は、自分の存在意義を常に模索していた。
それをつぶさに見られていたような気がして、顔が熱くなる。

「『これから帰って、ひとりで美豚弁当食べます』って言うのは、男性ファンに向けたリップサービスですか?」

中継に出ているのだから、クリスマスイヴに仕事をしていたことは明白なのに、一緒だった棋士に突っ込まれてそう答えていた。

「本当だよ。美豚弁当買いに来たんだから」

キッチンなべ島の方向を指差して答えると、彼はイスの位置を丁寧に直し、シャツの袖をまくって改めてピアノに向かった。

「だったら、もう少しだけそこにいてください」