「なんだ、残念」

「……っ!?」


耳元で落とされた低く色気のある声音が鼓膜をそろりとくすぐり、素直な鼓動は軽快なリズムで緊張を伝えてくる。
息を呑んで戸惑う私に反し、穂積課長の面持ちは涼やかだった。


「仕方ない。今夜は、これだけで帰るよ」


本気とも冗談ともつかない言い方はどこか嬉々としていて、そのまま移動した唇が頬に触れた。
チュッと鳴った音がやけに耳に近くて、心臓がますます大きく暴れ出す。


「明日の朝、十時」

「は、はい……」

「迎えにくるから、ちゃんと支度して待ってろよ」


甘い笑みをひとつ零した課長は、私の手の中にあるキーケースを奪うとドアを開錠した。
すぐに返ってきたキーケースをされるがままに再び握ると、背中をそっと押された。


「おやすみ」


ドアが閉まる直前に聞こえてきたのは、優しい声。
それに返事をする余裕なんてとっくに失くしていた私は、背に当たるドアの感触を確かめるようにもたれ、まだ温もりが残っている唇にそっと触れた──。