近場のオアシスとやらに着いたのは、その日の夜を跨いで翌日の昼頃だった。
時計がないので正確な時間はわからないが、オアシスらしきものが見えてきたとき、容赦のない太陽が頭のてっぺんを焼き禿げにしてやろうと言わんばかりに照り付けていたので、恐らくは昼頃、である。


それまでの道のりは、千明にとって熾烈を極めた。
出発前、千明は男が甲冑の中に着ていた服を頭から被せられ、スカートから剥き出しの脚には、やはり甲冑の中に履いていたズボンを履かせられた。かなりガバガバで大きかったので、スカートに挟み込んでなんとか腰で止めた。

いくら砂に全身を埋められたとはいえ、服を奪ってしまって申し訳ないと思ってしまうのは気を遣いすぎる日本人だからなのか。
男は千明の困惑など知るよしもなく、千明が小さく礼を言うと、おう、と簡潔に答えただけだった。
そうしてなんとか全身を布で包み太陽の直射を避けると、オアシスに向かって出発した。

あまりの暑さだった。
暑いというか、むしろ痛い。
けっして薄くはない布を通してじりじりと焼け付く太陽の熱さは、尋常ではなかった。
半ば意識を飛ばした状態で、それでも千明は男について砂漠を歩き続ける。そうしないと、恐らく自分はこの砂漠で命を落とすだろうし、男の足手まといになる。例の召喚カードで、意図せずとはいえ無断で呼び出した側としては、男にこんな苦労をかけていることが気になって仕方なかった。
服を借りた申し訳なさ以上の居たたまれなさに困り果てながらも、ならばせめて足手まといにはなるまいとの一念だった。
そうしないと、容赦なく捨てられるという恐怖心も千明を支えるひとつだった。

とはいえ男は鎧なんぞ着てよく平気でいられるというほど歩みに淀みなく、時には暑さで気絶しかけた千明を抱えて運ぶほどの体力を見せ付けた。
その際触れた鎧が全く熱くなく、むしろひんやりとしていたことに千明は驚いたのだが、これも魔法の一種なのか、と冷た鎧に頬を押し当てながらひとり納得しておいた。

男はまめに休憩した。
その度に岩陰に、岩が近くになければ自分の影に千明を覆いこみ、例の水の魔法で水分補給させる。体が火照っていれば、冷たい鎧の掌を額や頬に当てて熱を取ってくれた。

それを何度も何度も繰り返し、やがて太陽が沈んで夜になると、やはり魔法で火を焚いた。
燃えるより代になるものがなにもないのに、炎の塊が宙で赤々と燃えているさまは、千明にとってはなんとも不思議な光景だった。とはいえ、ありがたいことに違いはない。地球の砂漠でもそうであるように、夜になると急激に気温が下がった。
汗びっしょりで火照りきっていた体がぞっと冷やされて、思わずくしゃみが出る。吐いた息が白くて、ぞっとした。
男はさすがに食料は持っていなかった。この場にないものを遠くから運び寄せるというような便利な魔法はさすがに存在しないらしい。

で、なにを食べたかというと――男はそこらへんの砂からのっそりと出てきたゴキブリのような甲虫を串刺しにして、炎で炙って食べた。

食べた。

二度言うが、実際は二度見した。
まずくはないしそこらへんに腐るほどいるし、なにより栄養がある、というそれは、ゴキブリというより寧ろコックローチだ。外国産の巨大ゴキブリ。でっぷりとした腹が波打つ姿が恐ろしすぎる――とは言っても、食べないと体力が持たない。
正直、そんなことに構っていられないほど腹が減っていたということもある。
人間、どれだけ腹が減っていようとまさか同類とゴキブリは食べないだろうとは思っていても、いざ飢餓手前になると、食べれるならなんでもいいや、まで思考がぶっ飛ぶらしい。
千明は嫌悪感に涙を浮かべながらも、それでも火で炙られたそれを齧った。ぶよぶよしていた腹の感触がなくなるほどかりかりに焼かれたそれは、美味しかった。
いろんな意味で涙が出た。
千明はおかわり三匹、男は七匹食べた。

腹が少し落ち着いてくると眠くなってきた。
うとうとしだした千明を、男は見かねて胸に抱え込む。昼間はひんやりとしていた甲冑は、今度は何故か人肌に暖かかった。体感温度自動調節つきなんだろうか。なんて便利なのだろう。
そのぬくもりに安堵して息を吐くと、次にはあっさりと眠りに落ちていた。


翌朝は、まだ陽が上らないうちに出発した。
適度な水分を補給し、腹も満たし休息も取った千明の体は驚くほど軽くなっていた。オアシスには今日の昼頃に着く、と男に告げられ、ハイになっていたのかもしれない。
日中、スニーカー越しに砂に焼かれる足の火傷すら気にならなかった。
男にちゃんと寝れたのか尋ねると、一日二日寝なくても平気だと返ってきた。
一日最低七時間は睡眠をとりたい千明には考えられない。
男の足取りは言葉どおり、昨日と同じに淀みなかった。
とはいえ、千明の回復した体力は昼前に尽きた。その後は昨日と同じく屍のようにただ男の後をついていく。
ただ今日は気絶はしまい、と妙な決意をしていたおかげか、オアシスまでは一度も男に世話になることなく、自力で歩ききった。
つもりだったが、記憶にないだけで数度意識を飛ばして男に運ばれたと言われ、自己嫌悪でそのまま砂に埋もれそうになった。
そうして着いたオアシスは、千明のイメージとはだいぶ違っていた。



「町がある……」

砂漠に忽然と緑が生まれ、その中心に滾々と湧く泉を想像していた千明の期待は見事に外れた。
いや、泉はあった。
泉というよりもはや湖と言えるのではないかという大きさだが、その周辺を固めるように家々が並び、植物が生い茂っている。
オアシスの緑とはいえ、強烈な陽射しを浴びているせいか、褪せたグリーンの植物だったが、それでも千明の眼には痛いほど鮮やかに映る。ここにくるまで空の青さと砂の赤さと鎧の銀色、ゴキブリの黒しか見てこなかった。
緑が目に優しいってのは本当なんだな、とじんわりと涙が滲む。

「チアキ」

疲れも吹き飛び、意気揚々と街に入ろうとした千明を男が呼び止めた。
見ると、人の目を避けるように町の周囲を囲むように建てられた石壁に身を寄せている。

「この格好じゃ目立ちすぎるからな。お前、その服返せ」

言われて、確かのにその鎧姿は目立つだろうな、と思った。
彼がどこの誰だか知らないが、甲冑を着ているということは騎士とか戦士とかそういう類の人間なのだろう。そういう人間は、城下町とかにいても不思議ではないが、こんな辺鄙そうなオアシスの町では確かに目立ちそうだ。
千明は汗で纏わり着く服を苦労して脱ぐと、すみません、と小さく謝って男に返却した。

「……?なんの謝罪?」

男は首を傾げている。

「……借りてた服、私の汗で汚れちゃったから」

はっきり言うのも恥ずかしいが、申し訳なさ過ぎて言わないわけにもいかない。
もう一度すみません、と謝罪した千明に、男は笑った。
ような気がした。

「ガキがくだらねーこと気にしてんじゃねえよ。成人するまでは素直に大人に頼ってろ」

こちらの世界での成人が果たしていくつなのか知らないが、本当に気にしていないらしい男の豪快な物言いに、千明は素直に励まされ、頷いたのだった。



――とはいえ、セイトラムは千明を子供とは認識していない。
まさか彼も、子供と思っているような相手に勃起したりしない。
あえてそう言ったのは、そう言うしかなかったからだ。


セイトラムから見た千明は無知だった。
それも、恐ろしいほどに。

魔法と科学が浸透しているこの世界で、義務教育の制度は当然のように整っている。
孤児の識字率ですら八割を超えるほどなのだ。孤児にも当然ながら、学師という名の教師が協会や公共の場でもって教育を行う。それこそ文字や計算、日常に不可欠な基本魔法、生物、地学では各地の気候から固有生物に至るまで教える。
千明は、七歳の子供が常識として知っているようなことすら知らなかった。千明がぼそっときょだいごきぶり、と呟いた昨夜の夕食も、この砂漠固有のものではなく、世界各地に存在する万人が知る馴染みの虫だ。生命力が異常に強いので、どこにでも出る。貴族の館だろうが平民の平屋だろうが、それこそ王の住まいだろうが、どこにでも。
なにより、この世界の人間が息を吸うように使う魔法を、初めて見るような眼で見る。

昨夜、暖と獣避けのために焚いた初歩的な火の魔法を、千明は感心しきった様子で眺めていた。セイトラムの指先から出る水を不思議そうにしながら飲む。飲むことに躊躇はしないので、ここまでの道中助かったのだが、どう考えてもおかしな人間だった。
言葉は通じる。発音は見事だ。
おかしなところはない。
まさか記憶喪失か?とも思ったが、そういった者にありがちな不安定さがない。迷子のような困惑の眼差しは浮かべるが、自分は何者で何故ここにいるのか、という疑問は抱いていないように思う。
とはいっても、千明自らあのサトリ砂漠に来たとはセイトラムも思っていない。
なにより、召喚カードで召喚できない筈のセイトラムを呼び出した――これが、一番の謎だ。

なのでとりあえず、セイトラムは千明を軍国シュハイツに連れ帰ることにした。
幸い、このサトリ砂漠第四のオアシスから四日の距離にある砂都まで行けば、軍国シュハイツの大使館がある。そこからは竜なり馬なり借りて国に帰ればいい。その道のりで、千明が保護すべき対象なのか処分すべき対象なのかはっきりするだろう。
怪しいところがあるなら、自白剤なり催眠なり、いくらでも拷問にかけることができる。
召喚カードのこともあるので、魔術研究塔に引き渡すこともあるかもしれない。
とりあえず今は、異分子、という名目で千明を監視することにした。
正直、こんな面白そうなことに巻き込んでくれて感謝してやってもいいという心境なのだが、そんなセイトラムの心を千明が知ることはない。



「とりあえず、当面の食料と砂漠越えの服、あと今夜の宿を確保してくるから、お前は大人しくここに隠れてろ」

セイトラムにいわれ、千明は素直に茂みになっている植物の影へと身を滑らせた。
丸い葉は茎に張り付くように密に茂り、これが砂嵐や熱風から町を守っているのだろう。
そんな千明の横で、男も着替えを始める。
服を借りるときもそうだったのだが、恥じらいというものを全く感じさせない男は見事な脱ぎっぷりで鎧を脱いだ。
そして借りたとき同様、それを視界からはじき出すように、千明は後ろを向く。
がざごそと衣擦れがやんでから後ろを振り向くと、知らない人が立っていた。
千明の頭三、四個くらい高い位置にあるその人の顔に、眼が釘付けになる。
体格はかなりいいが、鼻につくような筋肉質ではない。必要な場所が適切に鍛えられているという印象を受ける。
顔は、目の部分しか見えない。鼻と口と額は見事に布で隠されている。
その布があっても、彼が美しい造作であるというのは解った。

それと、彼の目。

――吸い込まれそうなほど深く青い双眸。


「……誰?」

その青い眼を見た瞬間、妙な既視感に襲われた。

「俺様に決まってんだろが。その沸騰した頭冷えるまで休んどけ」

完璧な美形が粗野な言葉遣いで千明を茂みに押し込んだ。
なんて残念な美形だ。
男は呆然とする千明を置いてさくさくと砂を踏み町へと入っていく。
やがて行き交う人々と交じり合って見えなくなるまでその後姿を見送り、千明は体育座りをして小さくなった。

見渡せば見たこともない葉の植物、赤い砂、ぽっかりと落ちてきそうな青い空、直視できない太陽、ロバのようなラクダのような体格に、サイのような角が生えた妙な動物――ここは、異界だ。