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 1週間前の出来事を思い出していた。あれは通勤で使う、満員電車の中――

 発車して間もなく、お尻に妙な違和感を覚えた。何かで触られているような感じ。もしかしてカバンの角が偶然、そこに当っているのかもしれない。満員だから仕方ないよねと思った瞬間だった。

 いきなりその部分を、ぎゅっと鷲づかみされたのだ。

 容赦なくムギュッと触られる痴漢行為に何するんだと、怒りが沸々と湧き上がっていった。

 自分が降りる駅まであと少し。呼吸を整えてから息を飲み込み、逃げられないようにその手首をガッチリと掴んでやった。電車の扉が開いたのを確認して、ソイツを力任せに引っ張り下ろしながら、大きな声で叫んだ。

「この人、痴漢ですっ!」

 正直すごく怖かったけど、それよりもこのまま泣き寝入りをするのがどうしても嫌だったから、勇気をふり絞って叫んでみた。

 今、この瞬間にその出来事を思い出し、通り過ぎて行った男の肩を掴んで振り向かせ、右手を大きく振りかぶって頬を叩いてやった。

 フロアに響く音でその場にいる人たちが振り返り、唖然とする表情が目に入る。

「みっ、瑞穂ちゃん、いきなり何やって……」

「だって先輩、この人ってば、通りすがりに私のお尻を触ったんですよ! 痴漢行為です!」

 痴漢をした相手は柔らかそうな栗色の髪に、とても綺麗な青い色の目の持ち主でパッと見、そういうことをしそうじゃないけれど、電車にいた痴漢も見た目は何もしなさそうな大人しい感じの人だった。

「バッ、違うわよ。瑞穂ちゃんのお尻にホコリがついてたから、私が掃ってあげたの!」

 先輩がゲッという顔をして、叩かれた外国人を見る。

 先輩の視線の先に映る外国人は憮然とした表情を浮かべて、私を見下ろしてきた。

「君たちは日本から来た、ホテルの研修生ですか?」

 流暢な日本語を喋る外国人に驚きながら、黙って頷くことしかできない。青い目を鋭く光らせて、傍にある扉を顎で指し示した。

「叩いてくれたそこの君は話があるので、その中に入って待っていてください。所用を終えたらすぐに戻ります。私はこのホテルの代表取締りです」

 腕時計で時間を確認しながら告げると、颯爽と去って行った外国人。いや、偉い人。

「終わった。私のホテルマン人生……」

 何でよりによってホテルの偉い人を、思い切り叩いちゃったんだろう。これはもう、ついてないとしか言えない――

 顔面蒼白の私を落ち着かせるべく、ぎゅっと抱きしめてくれた先輩。

「瑞穂ちゃんのそそっかしいところは、外国人に通用しないわよ。しょうがないって」

「先輩……」

 それって私を慰めてるんだか貶してるんだか、まったく分りませんけど!

「でも外国人にだって、通用するモノはあるわ。くのいちを使うのよ」

「くのいち?」

「色仕掛け、女の使うの。黙ってりゃ可愛い瑞穂ちゃんが、あるんだかないんだか分からないその胸を、ちょーっとだけ見せて、うまいこと交渉すれば大丈夫よ!」

 先輩、言ってる内容が酷いことを分っていないだろうな。だからこの人、カレシができないんだ。

「そんなのしたって、落ちるとは思えません。賢そうな感じだったし」

「そこんトコ、エキゾチックジャパ~ンをアピールするのよ! そのミステリアスな瞳をウルウルさせて、おねが~いって言うの可愛い声でね。きっともうメロメロだってば」

 そんな簡単なことで落とせていたら、いろんな男を余裕でたぶらかせそう。

 こうして先輩から的確すぎるアドバイスの元、待っていろと言われた部屋でじっと待ち続けること15分間――
 
「待たせましたね、すみません」

 キレイな日本語で謝りながら入ってきた彼に目をやり、慌てて椅子から立ち上がった。

「先程は、大変失礼致しましたっ!」

 偉い人に深々と頭を下げた。今更謝っても遅いのだけれど。なぁんて思いつつ、内心しっかり反省する。

「ふっ……。頭を上げてください」

 震えるような声で告げられたので、すっごく怒っているんだと思った。ビクビクしながら顔をあげたら目に涙を溜めた彼が、肩をヒクつかせて私を見下ろしていた。

「面白かったですね、さっきは」

「は……?」

 きょとんとする私に、何で分からないんだと言いたげな顔して、肩をバシバシ叩いてきた。

「周りの人の顔が、とても面白かったんですよ。ビックリしたのとは違うな……。何て表現したら君に伝わるのか。それが可笑しくて、ガマンするのが大変でした」

 言い終えると、声を立てて笑いまくる。

 あの場では自分の失態を挽回するのに必死すぎて、回りの状況なんて目に入らなかったから、さーっぱり分からないんですけど。

 すぐ傍でお腹を抱えて笑う彼にどんな顔をしていいのか分らず、困り果てるしかない。

 この笑いの原因を作ったのは勿論私だし、痛い思いをさせたのも私のせい。もう一度、謝った方がいいのかなぁと思いはじめたときだった。

「ん……。ごめんなさい。久しぶりの笑いだったので、どうにも止らなくて。君のフルネームを教えて下さい」

 涙を拭いながら窓辺にあるデスクに格好よくひょいと腰掛けて、長い足を組みながらこちらを見る。

 その様子があまりにも様になっていて、まるでファッション誌の表紙になりそうな感じ――モデルのように背が高くてきりっと整った体形に、彫りの深い顔立ち。そんな顔をサラサラな栗色の髪が覆い、それに負けない神秘的な青い色の瞳を持っているなんて、本当に恵まれすぎてる。

「井上 瑞穂です」

 そんな格好いい彼に見つめられ、ムダににドキドキする胸を隠しながら小さな声で言った。

「イノウエ ミズホですね。どれどれ」

 デスクにあるパソコンを引き寄せて何かを打ち込み、じーっと睨めっこする。

「へぇ、勤務態度は真面目で仕事ぶりも優秀。だけど時々、注意力が散漫だって」

 う……現実を突きつけられたせいで、声が出ない。

「紹介が遅れました。私の名前はジュリオ・ベルリーニです。ミズホの名前、ミズはウォーターですか?」

 パソコンの画面を見ながら、不思議そうな顔して首を捻ったベルリーニ氏。

 外国人って、どうして名前の由来を知りたがるんだろう? ホテルで勤務しているときに海外のお客様によく訊ねられていたことなので、これはすんなりと答えられる。

「それはウォーターじゃなくて、しるしっていう意味なんです。他にも、瑞々しいっていう意味もあります」

「瑞々しい……。いい響きですね。ミズホのホは、稲穂のホ?」

「そうです。よくご存知ですね」

 うっかり自分の立場を忘れ、勝手に盛り上がってしまった。

「ん……。日本語は面白いです、奥が深い。名は体を現しているのが、よく分りました」

 言いながら、ニッコリと微笑んできた。

 青い瞳を細めて柔らかく笑いかけるその笑顔が、妙に瞼に焼きついてしまった。ずっと見つめていたい――そんな風に思える笑みだったから尚更。

「さて私にとって先ほどのことは、とても楽しい出来事でしたが、周りの人からの評価は残念な結果ですよね」

 声色を低くしデスクから降り立って、目の前に近づいてきたジュリオ・ベルリーニ氏。息を飲む男ぶりに、ただただビックリするしかない。

(――こんな雰囲気で、くのいちを使う余裕なんてない!!)

「あの、本当に申し訳ございませんでしたっ」

 頭を下げようとしたら肩を掴まれて、背後にある壁に押し付けられてしまった。

「ひゃっ!?」

「頭を下げて謝れば、日本では許されるのかもしれません。でもここはイタリアですよ、瑞穂」

「あっ、あの顔が近いです……」

 背をわざわざ屈めてじっと顔を見つめられるのは、本当に困ってしまう。

あたふたする自分の顔が彼の青い瞳に映っていて、更に赤面してしまった。いろんなドキドキが混ざって、胸が苦しくて仕方ない。

「ね、全力で抵抗してみて下さい」

 言いながらキスする勢いで、ずいっと顔を近づけてくる。

「やっ!? もう何なのっ」

 イケメンを潰してしまうくらいの力で自分から引き離すべく、両手を使ってぎゅーっと押しまくった。自分の中では、全力で押してるんだけど――

「Noncuranza 全然平気ですよ」

 顔を潰されても何のその、笑顔を浮かべて私の両手首を掴むと、頭の上にぎゅっと張り付ける。

「瑞穂、君の精一杯の力は、そんなものなのですか? 私を叩いたときの力は、もっと凄かったのに」

「はい?」

「実は未だに叩かれた衝撃が、肌の上に残っているんです。ピリピリした痛みがね」

 近づいた顔をよぉく見たら、若干腫れているようにも見えた。

そういえば、思いっきり決まっちゃったもんなぁ。スパーンっていう音が、廊下に響いちゃうくらいに……。

「あんな風に女性に叩かれたことがないので、どれだけの力を持っているのか確かめてみたのに。案外非力なんですね、瑞穂は」

「本当にすみませんでしたっ。やってしまったことを何度謝っても、それを消すことが出来ないのが、つらいというか何というか」

 どんな顔していいか分らなくなり俯いたら、額にちゅっとキスをされてしまった。驚いて顔をあげると左手を握りしめて、甲にもキスを落とす。肌の上に唇の柔らかさと温かさを感じてしまい、赤面しながらあたふたするしかなかった。

「バツとして、一緒に過ごしてください」

「一緒に過ごす?」

 慌てふためいているところに投げかけられた言葉がまったく理解できなくて、きょとんとした。さっきから赤くなったり青くなったり驚いたりと、翻弄されまくっているな。

「はい。君に残されてる時間は限られているでしょう? だからこそ、これから一緒に過ごすんです。バツとしてイタリアでの思い出を、この私が作ってあげますよ瑞穂」

 腰に腕を回して、スマートかつ強引にエスコートしてくれる。

「あの、ベルリーニさん。それじゃあバツになっていないんじゃ」

「ジュリオと呼んで下さい。私に無理矢理同行させるんですから、これはバツですよ。それにね、Vedi Napoli, e poi muoriっていう諺があるんです」

 意味が分らず小首を傾げると、嬉しさを瞳に滲ませた。何でも教えてあげるっていう雰囲気が、優しげな瞳から伝わってくる。

「つまり、ナポリを見てから死ねっていうね。イタリアに来たなら一度はナポリに行かなければならないくらい、本当に素敵な場所なんです。屋上にある自家用ヘリで向かいましょう」

 抵抗できる立場でもないので誘われるままヘリに乗り込み、一路ナポリを目指すことになったのだった。