帰宅時間になり、周りをきょろきょろと見ながら会社の外へ出る。
「……いないか」
このところ、神出鬼没な社長に帰宅時に拉致されることが続いたので、思わず警戒してしまう。しかし、どこにも目立つ社長の姿はなかった。食堂のおばちゃんが現れることもない。
無事に社外に出ると、肩の力が抜けた。と同時に、胸を秋の風が吹き抜けていく。まるでそこに、ぽっかりと穴が空いているみたいに。
変なの。これじゃ、社長が現れるのを期待しているみたいじゃない。
「そんなことないんだから」
一度キスされたくらいで意識してしまうなんて、中学生じゃあるまいし。きっと社長は、誰にでもああいうことをしているんだ。だって悪役なんだもの。
社長が他の女の人にキスをする場面を想像した。自分で想像したくせに、とても気分が悪くなった。
寂しいような、悔しいような、とにかく嫌な気分だ。
唇を噛むと、ふっと頭をある光景がよぎっていった。昨日の下山ギャラリーで見たお父さんの絵だ。
今の私には買えないような値段がついていた、お父さんの絵。あれをもう一度見たいなあ。
私は「フランダースの犬」のネロのように、空腹のままお父さんの絵を求めて歩き出した。



