「ごめんね。麻文」

 ゆっくり顔を上げたお母さんがわたしの名前を口にする。

「ずっとお母さんのこと、おかしいと思っていたでしょう」

 どう返事をすればいいのか分からなくて、黙っていた。脳みそが揺れている。

「不安にさせたね。ごめんね。お父さんがここにいると思って生活しないと、本当におかしくなりそうだったから」

 目を閉じて、お母さんはため息をついた。

「お父さんを、あの日に置き去りにしたくなかったの」


 お母さんは、自分が異常な行動をしていると分かっていたのだと、いま気付いた。

 おかしくなったお母さんとずっと暮らすのかと思って、でも、それでもいいのかなと考えていたから。
 思い出の中で暮らして、それで、自分を保っていられるのなら。

「お父さんが、ずっとこの家にいるような気持ちになったよ。わたしも」

「麻文」

「同じだったよ。お母さんと」

 自分が、和泉くんを思っていたように。

「麻文、いつの間にそんなに強くなったのかしらね」

 お母さんはわたしを抱きしめた。お母さんの匂いだ。いつぶりだろうか、この匂いを間近に嗅ぐのは。

「お父さんにそっくりね。この目も、鼻も。睫毛が長いところもそっくり。手はお母さん。お肌が綺麗なのもお母さん似だけど」

 お母さんの匂いは、まだそばにいる。お父さんはもう触ることができないけれど。

「もう、お母さん、大丈夫だから。ちょっとずつ大丈夫になってきたから。不安にさせてごめん」

「お母さん、そんなにたくさん謝らなくていいよ」

 わたしを思う気持ちと、お父さんへの思いにかき乱されていたのが分かるんだ。

「麻文。お父さんのこと言い続けて、ごめんね」

 お母さんは、わたしの額に自分のそれをくっつけて、泣いていた。

「お父さんのお墓参り、行こうね」

 頷きながら、涙が出た。
 お母さんの目が、ちゃんとわたしを見ていたから。

 止っていた、わたしのなかの3月を、ゆっくりでも動かしたい。