「……あ、なんか今日校門が新刊のビラ配りで騒がしいと思ったら、秋入学の子がいるんだ」
静かに麻里茂がそう呟いたので、私も窓の方に目を向ける。
チラシを持った生徒が、きょろきょろと辺りを見回しながらキャンパスを歩いている。
春の頃の自分と重なり、時の流れを感じてしまった。
「なんか新しい風が歩いてるって感じ。いいね」
新入生を見ながら麻里茂がそう呟くと、すかさず東堂が突っ込んだ。
「俺らと半期しか変わらないだろ。先輩面すんなよ」
「もう、うるさいなあ、東堂は」

新しい風が、吹くといい。
この大学にも、私達の間にも、私自身にも、吹き続けて欲しい。
過去を振り返れないくらい強く、私達の背中を押してくれるような、そんな新しい風が。




高時給な居酒屋でのバイトを終えて、私はレイトショーを観にキサラギホールへと向かっていた。
神楽坂にあるバイト先から、キサラギホールまでは歩いて十五分程で着く。スペインバルがある角を曲がって、そのまま下り坂を歩いて行くだけの簡単なルートだ。
今日は生憎の雨だが、皆で誓った映画鑑賞強化月間をしっかりと実行している。ビニール傘にポツポツと雨が当たり、雨の日独特の土臭い香りが鼻腔をくすぐる。
時刻は夜の十二時で、辺りはほとんど人がいない。コンビニと朝まで営業している居酒屋の明かりを頼りに、キサラギホールまで足を運んだ。
段々と、白い看板に赤い文字でキサラギと書かれた建物が見えた。
私は思わず早足で駆け込み、ビニール傘を折りたたんだ。雨の雫が足元にぼたぼたと落ちたので、よく払ってから中に入った。
重たいガラス戸を手で押して中に入ると、独特のレトロな世界観が目の前に広がった。
年季の入った赤い絨毯を踏みしめて受付まで向かうと、見覚えのある金髪が見えた。

「あ、ムトーだ。働いてる」
「冬香じゃん。終電でも逃したの?」
私を見て一瞬目を丸くしたバイト中のムトーは、金色の髪を一つに束ねて、化粧もいつもよりは薄くしていた。
「ううん、今映画鑑賞強化月間なの」
「何それ、相変わらずストイックなことやってるね。はい、スクリーンどうぞ」
「ありがと、またね!」
ムトーに年間パスポートを提示して、私は受付の真横にあるスクリーンへと向かった。
人はまばらで、私含めて十人程度しかいなかったため、席は選び放題だ。
スクリーンへと足を入れたその時、後ろで重たいドアが開く音がした。
一瞬雨の音が館内に入ってきて、またすぐに立ち消えた。
「いらっしゃいませ、大人千八百円です」
「あの、年間パスポートを購入したいんですけど」
「かしこまりました。それではこちらに必要事項をご記入ください」
若い男性の声を背中で聴きながら、入り口付近で上から見下ろして席を選んでいると、スマホがバッグの中で震えた。
私は慌ててスマホを取り出して、機内モードに設定し直した。

まさかそのメッセージを送った相手が、今真後ろにいるムトーからだとは思いもしなかった私は、ようやく席を決めて、入り口の重たいドアを閉めて中に入った。

「ご記入ありがとうございます。市之瀬春人様ですね。大学生であれば、学割が効くので学生証もご提示ください」
「はい、分かりました」
まさか、そんな会話がスクリーンの外で繰り広げられているなんて、予想もしていなかった。ましてや、ムトーから鬼気迫るメッセージが入っているなんて、予想もしていなかった。

『ヤバい、ハルだ』。

そんな一言メッセージが一瞬画面の通知に見えたような気がしたが、私は深く考えずにスマホをポケットにしまって席に着いた。
すぐにCMが始まり、私は映画の世界に入り込むための心の準備を始めていた。
ハルと一緒に映画を観た日々を、一度頭の中で思い出して、心を落ち着かせる。
ハルと会えなくなってから、いつも映画を観る前はこうやって数秒目を閉じるんだ。
館内での撮影は禁止、というお決まりの注意動画を見終えると、古いブザーが鳴った。
そのタイミングで、一番最後に入ってきたお客さんが、私の一つ前の席に座った。

『海の上のピアニスト』を観るのは、中学生の時ハルと観た以来だ。
懐かしい。そうだ、このシーンから始まるんだった。
ハルはこの映画が大好きだと言っていた。そして、東京の単館でこれが上映したら、必ずスクリーンで観るのだと豪語していた。