「だめよ」

美月は涙に濡れた顔を上げ、伊織を見つめた。

「できないわ。私もあなたも大人になりすぎた。失うものが多すぎる。傷つく人がたくさん出るのよ。思うままに家を飛び出して許されるのは十代までよ……」

伊織は、決心したように見つめる美月の瞳を見つめ返して、そのまぶたを指で軽く閉じた。

「……抱きしめていい?最初で最後。約束する」  

美月は目を閉じたまま、伊織の胸に顔を埋めてしゃくり上げた。伊織は静かに美月を抱きしめた。その腕は、震えていた。そして、泣く思い人の額に唇を落とそうとしたが、理性でようやくこらえた。

伊織の苦悩と美月の涙は、過去を映しながら現在の二人の絆を埋めたが、未来は閉ざされた……。

「……もう、無理するのもがんばるのもやめろよ、美月。俺、待ってるから。一生、待ってる。来ない待ち人をね。でも美月のものだから、それは忘れないで」

「ありがとう」

「いつか鵲の橋を渡って、恋人として会おう」

「……いつか、ね。未来と夢をありがとう、伊織」

ぱっと電灯がついた。医局のドアが開きそうだ。

二人はさっと離れると、何事もなかったかのように仕事に戻った。ドアからは病院のエントランスに飾り終えた笹が運び込まれてくる。

美月は、タイピング残業を終えると、ちらりとも伊織を見ずに立ち上がり、帰り支度を済ませると、そっと帰宅の途についた。

その若さが薄れかけた背中を見つめながら、牛込伊織は切なさを封じ込めるべく、差し込む月明かりを遮るためにブラインドをしっかりと下ろした。

鵲の腹のような霜が下りた月の光は、ゆっくりと小児科医局のブラインドのすき間から消えていった。

(了)